鴛鴦呼蝉庵日乗
2001.9.12 語り手の構造を読む序説
   この稿はまだきちんとまとまりを持っていないのですが、とりあえず今の所考えるものです。
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 太宰治の『走れメロス』は、メロスのことを語り手が語ります。それゆえ、メロスの動きを語り手が説明することになります。語り手は語り手の視点でメロスを見ます。そして、作品の中で「走れ、メロス!」と語り手はメロスを応援します。語り手がメロスの視点から見ていくことになるのです。
 芥川龍之介の『羅生門』で、語り手は下人のことを語ります。それは、下人を遠巻きに語りますが、「雨は羅生門を包んで」の部分は、下人の視点で見ています。また、階段を登ったときに、「いるらしい」という表現をしています。これは、語り手が客観的に描写しているのではなく、語り手が下人の視点で語ることになっています。もし語り手が語り手としての立場を守るのなら、それは「楼の上には老婆いる」と表現するでしょう。そのように表現しないということは、語り手が主人公の視点で語っているからです。この仕組み、構造を理解すること、それは、作品を読むということにつながります。
 雨が降ってうれしい、雨が降って悲しい、それぞれ立場が異なります。その異なりがあるのはそれぞれの視点が違うからです。視点の違いは着眼点と推測点にあります。推測点は個人の感受性によって異なります。そうなると、語り手を読むという構造は、語り手の語りを読者が主観で読むということになり、語り手の意識とは異なった意識を読みとることになります。
 この構造があるからこそ、小説や音楽やその他のことが自由に読み、そして楽しむことになります。
 9月10日の「相対性」につながるのですが、語り手の構造を読むことは、語り手の語りの構造を主観的に、読者が何かしら価値を入れて読むことになります。読者はいつも自由に作品に価値を加えます。しかし、文中からしか読んではいけないという実証主義の読み方は法律を読むにはよいかもしれませんが、実際の読書では楽しくないものです。
 楽しく読むこと、それはどのようなことでしょう。自分の考えを加えて作品に推量した価値を加えることです。そしてそこに新しい発見があることです。発見があると、それは次へのステップになります。
 すべて発見は他の発見ではなく、自己の中にある価値観の発見です。自分を見つけること、それはなかなか難しいものです。しかし、その難しさを乗り越えて自分の自由な発想で生きていくこと、それが読書の楽しみなのではないでしょうか。
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 明日は仕事を中断して、少し息抜きをします。最近、パソコンのハードトラブルがありますので、近々ハードの入れ替えを考えています。話をすることは、相手を理解すること、自分を理解してもらうこと、そこには信頼関係が生じます。その信頼関係を生じることを人間関係形成行為と言います。この行為はとても楽しいものです。その楽しさを得ること、それは、「ため」にするのではなく、するのです。健康のために栄養をとるのでなはく、おいしいものを楽しむから食べるという発送が本来なのではないでしょうか。精神的なものです。食べるという行為と精神性は9月11日「酔いの精神性」にも書きましたが、精神性ということ、つまり私たちは豊かな心というものを自由な発想で理解と表現で満ち足りていく行為だといえると思います。
 ということで、明日の息抜きについてはまた明日報告しましょう。金欠状態において、金遣いが荒くなっていて、ちょっと困った夏でした。

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