鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.02.19 記憶

 昨日のことを今日、記すということになりました。昨日はアップできなかったのではなく、昨日はパソコンに触らなかったというのが事実。そういう時間がなかったのです。それで記憶をたどって、記すことになるのですが、そうして、記憶をたどるということは、それを書いていることを記憶、つまり過去を記すことになります。今の自分の考えもありますが、過去の自分のことを記すことは、永遠にここで書くことは記録であるから、過去のことになります。そして、これを読むことは、すでに過去にあることを書いたという時点の後に読むわけですから、過去の過去になります。いや、過去の二乗という意味ではなく、私の過去を他人が過去として読むということであって、つまり時間としてではなく、読み手としての時間も入ってくるのであって、そうなると、本というものも、過去をひもとくのですが、読み手は現在で読む。それが実は時間というものをページの中に織り込むという作業なのです。だから、いっぺんで理解するものではないのです。音楽もそう。時間とともに鑑賞するから、歌詞の一番は過去になる。だから、記憶をたどるのであって、記憶の蓄積として存在していくのです。
 今もう辛いことになっていることがあるとすると、それがもしかしたら、以前は楽しいことだったかもしれません。そうなると、楽しいことは記憶として存在することになります。記憶として存在することは、今の辛さとは別次元で、時間が存在しているのです。それをどのようにしてい克服するか。それは、方程式はありません。なぜなら、記憶というものは、科学的に、あるいは公式のあるものではなく、その人の感情のなせる技であって、必ずしも正しく記憶しているのではありません。個人による正しさ、あるいは個人による事実によって認識されますから、実際とは異なることもあるのです。それが記憶です。有る意味では現時点での想像や期待が記憶に入るかもしれません。だから、記憶というのはいつも一定ではなくて、時間とともに変化するものでありますから、記憶は過去ではなく、現在が作るものであるといってもいいでしょう。現在の作る記憶をたどることならば、現在の辛いことを時間とともに、辛いことを辛いことでないと記憶することができます。それゆえ、過去の楽しいことや現在の辛いことを価値観をもって考え直すことで、新しく作り直すことができるのです。
 でも、その記憶というは価値に固まるから、辛いことを考えると、そのまま辛いことになり、楽しい記憶も辛い記憶として存在してしまいます。記憶に他人が出てくると、その他人も辛い存在として嫌悪の対象となります。あるいはなしえない事があると、それも辛いこととして記憶されます。それがたまりにたまると、ストレスとして自分の体や精神を病み続けるのでしょう。そういう自分がいてもどうにもならない。そういうことはよくあります。
 私自身もそういうことを何度も繰り返しているのです。そしてある時にふと開放的に記憶がいい方向になる。ほんの少しの考え方なのですが、その考え方を変えるには強いショックが必要のようです。

本日購入のCD。そにしても、マニアックですな。これは。別に買わなくても、借りて聞けばいいものなのに、こういうのに興味を示すこと自体、パラノイアです。いや、それは自覚しているのですがね。それでも、パラノイアはとてもいい傾向だと思っているから、よくないのかもしれません。自己肯定はいい傾向なのですが、それをしっかりできないところに問題がある。まあ、どう考えても、収集癖ではない、有る意味での物好き、好事家ということに終始してしまうでしょうが。
「甦るオッペケペー 川上音二郎」
「日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ レコーディングス」


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