鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.06.08  ガクアジサイの花

 昨日の就寝時間 5:30、起床は1:00。5:30睡眠時間。この睡眠時間の記録、いったいどうして行っているかを考えると、やはり「断腸亭日乗」の影響でしょうね。ども完全な影響ではなくて、もし完全に影響するのであれば、食事も「ぬくわん」とか表記しますね。でも、そこまでいかないのは、食事を記憶していないのではなくて、むしろ、食事を記録することは考えていないからです。では、なぜ睡眠時間だけするのか。これを考えると日乗を記すという基本的な作業の意味がわかりそうです。
 というのも、もし睡眠時間が一定であれば、記す必要はありません。記すという意識も生まれません。それを記すということは、記すに値するのであって、それはその日によって異なる、一つ一つことがらだからです。日常の食事がそれほど変わるものではないので、記すに値しないのです。そうなると、記すということは、日常ではないこと、それは毎日の繰り返しでない、いわば特殊な一回性のものだからです。特殊であるからこそ記す、それが日乗への記述の基本ではないでしょうか。よって、基本的な習慣は書かれていないのです。特殊であるからこそ、記すに値するのでしょう。それまでではない考えだからです。
 もっとも、私はここに書いたのを見直しをしないので、どの内容かは忘れることになります。よって、同じテーマが書くこともありますが、それはそのときの自分の考えの一部を記すことですので、記録性という意味で、記録するのです。では、いつかその記録を使うときが来るのかということについては、不明です。その時になって考えればいいのではないてしょうか。

 あじさいは、玉のほうが好きなのですが、ガクアジサイも最近、気に入っています。特に周りの花の色と、中の青、その対比がなかなか美しいのです。でも、薄暗がりに見ると、動物の目のようにも見えて、昔の人は、きっと動物か獣か何かに間違えたに違い有りません。ガクアジサイは古来種ですから、昔の人も見たのでしょう。

 今日は、午後から「ことば文化研究室」での研究会ですが、午後になってどうも体調がすぐれず遅れていきました。今日のテーマは、例の荒川区の学力調査公表問題。やはり実名入りの公表はよくないですね。たとえば、地域の丁目ごとのテストの結果を自治体は公表するでしょうか。中学校の生徒数が100人程度ですから、そこにいる集団、個人が想定できてしまいます。それを個人情報の公開と考えないのでしょうか。競争原理による序列は資本主義では当然の行為ですし、学力調査をすることはよいことです。そして、調査結果を活かすのならこれからの教育にとって有意義です。しかし、知る必要のない人までに公開することは、どうでしょうか。それによって、地域ごとの格差を生じさせることもあります。また、子どもの意識を低下させてしまうこともあります。地域ごとの達成度のテスト自体の信憑性もあります。さまざまな問題があっても、データを読み取る人が、中学校の格差だけを見てしまえば、結局は一方的な見方によって、差別されることになります。それでいいのかということです。学校ごとの独自性や個性といいながら、結局は個性でなく、一定の学力が必要だということになると、個性は消されてしまいます。それでよいのでしょうか。一般社会と子どもたちの環境は異なるです。それを見ないと、いつの間にか子どもの意識に枠をはめてしまうことです。データを読み取る力自体まだまだこれから教育すべき内容です。それは一般の人もそうですね。メディアリテラシーとして気をつけるべきです。
 これから品川区でも公表するらしいですが、自分の子どもの通っている学校ごと、それもクラスごとのデータを公表されて、その結果何が生まれるかを親はどう考えるのでしょうか。この問題で立ち上がらない、意見を言わない教師こそ、問題です。そして、調査に現れない子どものよい点や学校の独自性を見ない人がいることこそ、その意識を糾弾すべきです。その問題を荒川区の教員委員会は名言していません。責任追及が問題ではなく、子どもたちがどのように思うか、そして、よりよく生きていくか、学んでいくかにかかっていることを忘れてはなりません。

 夜になってふらつき始めましたので、久しぶりに早めに就寝することにいたします。土曜日にライトを見てから目がどうもつらくてなりません。光に弱いのにライトを浴びたからでしょう。今でも横で何かが動いているような気がします。

 近所にいた鶯がいなくなりました。巣立ちしたならいいのですが、カラスに追いやられたら悲しいことです。しかし真実はわかません。ただ、それだけです。それと時期を同じくして、流しの出窓の上に蜂が巣を作りました。毎年作っては巣立ちするのですが、今年は蜂の種類が違うようです。毎年のは体が長いのですが、今年のは普通の大きさでした。しかし、蜂が住み、ヤモリがいて、それは平和な場所だと思います。
 花が咲いて、そして緑が多く、本があって、それで毎日が過ぎていくようです。それは日常なのですが、ちょっとした花や木の成長を見ていくことは、日常の中の非日常です。

 NHKで「武蔵」をやっていますが、BS-hiが先に、そして総合テレビ、BS-1とあります。時間差で見られますが、どれから見るかというのか問題。どれも同じというなら、翌週の再放送でもありですね。

 アニメで「Pin man」があるのですが、シュール過ぎてちょっと敬遠します。もっと敬遠するのが「Mashimaro」。ちょっと下品ですからね。下品なら「ポピーザぱフォーマー」も同じですが、こっちは意外性があって、おもしろい。最近は見なくなりましたが、以前はよく見てましたね。発想にびっくりましましたから。考え方が新しいとおもしろいですね。アイデアというのか、能力というのか、それを私はよく「視点」といいますが。「視座」という言い方の方が正しいのかもしれません。「視点」はいつでも換えられますが、「視座」は基本的に自分の中の思想的な背景を背負って見ますから、見る人の人間性によります。
 「視座」から考えると、最近のアニメは娯楽のみでなく、世界を表現している点で、深いのではないかという思いがあります。

 腱鞘炎のような痛みが右腕にあるので、湿布薬とサポーターが欠かせません。


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