鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.07.01  焦り

 電車を乗り過ごすことはほとんどなく、経験からしても、直前で起きることがほとんどですね。
 学生の頃に高田馬場で國學院の学生と朝まで飲んでいたことがありました。そして、山手線の始発に乗り、新宿方面へ。途中何度か膝をたたかれるような感覚がありましたが、そのまま寝ていました。そして、終点ですという声に起きると、そこは池袋駅。すでに時間は10:00。5時間以上も電車に乗っていたことになります。そのまま大学へ行って授業を受けて、午後は二日酔いもあって、部室で時間をつぶしていました。そのまた夜も飲み会でした。そんな生活の時、乗り過ごしは意図的に行われていたのですが、意図的でない場合、学生の頃はなくて、努めてからはありますね。東京行に乗って気がついたら三鷹に終電として停車。1:00頃に電車寝ているというのも、今ならその時間は起きていますから、寝ていることはないですね。

 焦るということは、時間に間に合わせたいという意識があるからで、その意識は、時間という締め切りが存在するからです。もし、時間というもの、締め切りがないと焦りかなくなります。目標が遠く6ヶ月先でも、今の段階がうまくいかないと焦ります。焦りとは相対的で、遠い目標であっても今のように感じると焦ります。
 しかし、その反面、締め切りを忘れてしまうことで、焦りがなくなることもあります。 恐れも同じかもしれません。目標を達成し得ないから恐れるのかもしれませんね。今日、死にたいと思うかという疑問に、頻繁に思うという答えをしたら不思議がられました。よくありますね。そう思うことは。不思議に実行していませんから。今日も強盗が入ったところで、死にたくないという気持ちは起きないでしょう。別にやり残したことがあるわけでもないのです。ただ、そういう気分はあるのです。死に場所はすでに決めています。突発の事故だと無理ですが。そういうことを考えることは自由でしょう。しかし、実際に行動を起こすとなると、突発的に衝動的はしてきませんでした。それは、日にちを選びたいという意識、つまり、死に当たって、場所と時間と方法を選びたいという意識があるかでしょう。それは、死を自分で演出する、つまり死を自分の範疇に組み入れたいという欲望にほかなりません。それゆえ、計画する死という概念はあくまでも抽象的であって、現実化するものではありません。そうなると、計画の進行はなかなかできなくなります。それを生きたいという欲望とらえるのは別です。ただ、死ぬタイミングを逃しているというのが事実でしょう。
 もっとも、ここに書いていること自体生きていることを実感しているのかもしれませんね。ただ、書いているだけで、読み返さないから、過去を過去として残すのであって、読み返していくことをしないのは、過去に残された自分を見るのはどこか惨めな懐古であるからかもしれません。
 いずれにせよ、机上の空論であることには違いがありません。現実に秋の計画をしているのですから。

 自分の評価が帰ってくると、劣等感や脱力感に襲われます。それは期待があるから。期待通りにならないのが、いやなのです。努力しているのにむくわれない時こそ、脱力感に襲われます。しかし、努力は続けなればなりません。続けることで向上することは可能です。努力なしでは向上しません。その努力を常にしていくことが大変なことなのですが、その努力こそが自分を大きくするのです。失敗のトラウマから抜け出していくことには努力しかありません。そういうものです。努力に終わりはないからです。絶望というのも、期待はずれです。望みが絶えるのですから。しかし、絶望的であって、本来の絶望なのではないじょうね。絶望ということ自体、望みを持っていたことになりますから。

 ワークグループの春期最後の話。今日は今後の予定を話して終わり。キャラ100選、アニソン100選、アニメ100選などの計画を出しました。秋からは形に残るような共同研究、調査をしてみたいと思います。できないかもしれませんが、それはそれでいいのかもしれません。決まった締め切りがあるわけではないので、その時の考えを延長していくことで、頭も活性化されると思います。計画通りよりも、その時のワークグループのメンバーが出すアイデアに任せていく方がうまくいくと思います。
 だれかが先頭をきって走るのも必要ですが、それぞれのメンバーの力を出し合い、その中から一番いい方向へ、その時その時に判断していく方が、よい結果になることがあります。グループでの作業とはそういうものです。すべての計画を一人がするのもよいのですが、しかし、流れにまかせていく方がうまくいくこともあります。特に、目的や目標をしっかりもっていない場合は、そういう混沌から何かを生み出す作業が楽しいのだと思いますね。それは、視点を探す準備をしているのだと言えばわかりやすいでしょう。いや、わかりにくいか。
 ワークグループのメンバーには感謝。そして秋の再会を楽しみに。それまでテーマを考えておきます。まずは、ワークグループのみなさんは、目前の難関をがんばって下さい。応援しています。

 SEEDのDVD、第一巻を見終わりました。動きや展開が激しく、またずっと緊張感があるので引き込まれますが、ふと見ている時に、やはり戦争の状況に子どもたちがかり出されるというストーリー展開だなぁと思いました。相反する、敵対する集団の争いなのです。二つの争いであって、複数ではない。いや、複数なのですが、場面は二つになる。そう、スポーツもそうでしょう。2チームの試合はあっても、3チーム同時となると、陸上のリレーしかありませんね。しかし、サッカーのグラウンドを正方形にして、それぞれの面にゴールがあり、4チームが闘い、自分のゴール以外に入れると点が入るとしたらどうでしょう。レフリーも困りますが、チームのメンバーもきっと、弱いチームを探して、そこを重点的に攻撃するでしょうね。きっと、2チームほど連合になるでしょう。そうなると、結局は、大きなグループとしての相反する状況となってしまいます。
 内容としてはよい作品ですし、絵もきれいですね。ただ、戦争ということは、難しいことを抱えています。平和は軍備化によるものであるということになりますし、それは事実ですが、平和を維持するのは、軍備的な攻撃を受けるということではなくて、もっと身近な争いがあると思います。平和とは誰もが仲良くではなくて、仲良くない相手とも共に生きること、そのためには、苦渋や困難があっても、それを争いにしていかない努力が必要なのです。平和であるためには、戦争するよりも維持する努力が必要となります。敵がいても、敵を敵対関係にしないという努力、意識が必要となるからです。
 かといって、戦争を肯定しているのではありません。平和であることが何も事件のない状態だと思われることがどうも違うのではないかと思ったまでです。共存していくことの難しさがあって、それを乗り越えられないから、難しいのです。

 5:00頃就寝、6:50起床、1:50睡眠。というのも、一行添削をしていたら、ついに居眠り。もっとも添削を始めたのが4:00ですから、無理もありません。座椅子で居眠りしていたので、首の血行もさまたげられてしびれたり、背中や腰も痛みがあって、いいことはありません。今日は布団で寝ると決意しています。

 誰も知らない私の事実というテーマでスピーチをすると、ためらいますが、実は言いたいことが含まれているかもしれません。そういう自分を受け入れられるか実は不安なのです。しかし、受け入れられると安心します。誰もがそういう自分を認めてくることを願うからです。受け入れられなくていいのですが、言ったときに失敗することが実は怖いのです。だから、人は役割を演じていくことで、素の自分を出さないことができます。素であることは、すべてであり、人からの意見を受け容れるだけの怖さを知ることになります。演技することはショックをやわげます。そして、次への演技を生みます。

 10年たったら自分は何をしているのか、そんなことはついぞ考えたことがありませんでした。しかし、10年前なら記憶をたどることができます。10年という年月、どうなることやら。すでに、仕事を始めて10年はとっくに過ぎています。

 Painterの導入を考えることにしました。もちろん、しばらく後ですが。

 明日は甲斐田さんのCDの発売日です。人気ありますね、このCD。

 SEEDの話になりますが、OSを書き換える、というのがあります。本来は正しいのでしょう。Oparate System として考えれば。で、再起動なしに書き換えるというのが、不思議でした。本来なら、OS自体が起動している上でOSの変更はあり得ないからです。だから、操作する言語の修復は、ユニットの書き換えになるかもしれません。それなら考えられます。実際にはもっと複雑なのかもしれませんが。でもどのように展開するか、それはこれからですね。どうも、C++を意識ているようでしたが、個人的にはAIDAでコーディングしたらおもしろいと思ったのですが。

 先ほど書いている途中で居眠りをしていました。ほんの15分ほどでしたが、実はそういう睡眠時間をしっかりとっているのかもしれませんね。

 茶碗を洗っている時に、ふと、落として割った場合を考えました。それは集中力が欠けているからです。集中力の欠如で割るというのは、割ったことではなくて、割ってしまうことに至るまでの過程にあります。茶碗は両手で押さえていれば割ることはありません。片手やしっかり抱えていないと、落とします。片手でも、しっかり支えていればよいのですが、支えていないから、落とすことになるわけで、その行為自体が不注意なのです。落としてしまう行為ではなくて、落とすまでに至るしぐさなどが予測できたはずの行動を回避できないという不注意なのではないでしょうか。

 眠い状況で、書き連ねると、とめどもなく長くなりますね。それは頭が働いているのですが、実は、あたまを働かせないでいる時の方が、いろいろ言葉がでていくようです。眠いときにつまらないことでも笑ってしまうのと同じでしょうね。感受性の入口が狭いと、どうでもいいことで楽しくなったりしますから。

 本日購入の本。
○清水勲『江戸のまんが』講談社学術文庫
 漫画という文化がどのように日本にあったかを考えるための参考書。
○西原博史『学校が「愛国心」を教えるとき』日本評論社
○平林文雄『中島敦』和泉書院

 本日購入のCD。
○S to M「Anthology」
○S to M「Fantasy」
○ナイトメア「アウトロー」

 ROSEを買うかどうしようか迷い中。それと、マーディレイラも。


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