鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.11.25  胡散臭さ   
 

胡散臭さ
 「だれにでもできる」とかいうスローガンには、いつも胡散臭さを感じています。「だれでもできる」というのは、それをしたい人が「だれでもできる」わけで、したくないひとまでを「できる」ようにするわけではありません。つまり、目的意識がはっきりしている人のためにあります。そうでないと、全体主義的な香りがしてしまいすからね。
 それと同じ事があちこちで言えます。もっとも、この考え自体、詭弁ですが、胡散臭さというのは、いつもつきまとうことなので、考え自体も含みます。

 今日はいろいろと行き違いがあって、とまどいましたし、苦労もしました。行き違いは、受け手と送り手の意識、期待値が違うからですね。それはしかたないのですが、行き違うと、どうも辛くなります。伝わらないからでしょうね。そうなら、もうしなくていい、生きていても価値がないという気になります。もちろん、それは胡散臭いことです。価値がないなんて、毛頭思いこみです。

 が、「自殺なんてよくない」「生きる方が辛い」「死ぬのは勇気がない」とかいろいろ言われますが、倫理的にはその通りで、しかし、感情的にはまったく合わないですね。死を意識した人の意見はなるほど、説得力がありますが、そうでない人の意見は、生きている、あるいは肯定的な人に、ネガティブな意識を語ろうとしても、どこが胡散臭さがあります。

 「自殺したい」ということ自体、すでに自殺していないわけですから、もう胡散臭いわけですね。あるいは自殺予告とかも胡散臭さの証拠です。しかし、その反面、「死ぬのはよくない」というのも、どうも胡散臭い気がしています。いや、それは言葉の上で、辛くて、どうしようもない人の意識をその時の理解をしていないのではと思います。ほんの小さな事でも、それは、重大なことに思えることがあります。その辛さをどう乗り越えていくか、それは極めて有効な、かつ救いの手です。辛くてしょうがない、死ぬしかないという意識をもった人が、どこかで救いを求めているのであれば、それを救う言葉は有効で、そこには胡散臭さはありません。

 つまり、胡散臭さとは受け手と送り手の関係に依存します。真意という、理解されている意識にかかっているわけですね。理解されているという実感、好まれている、受け入れられているという実感、愛されているという実感、それらの実感が存在価値であり、それは安心です。自分の位置があるからですね。

 でも、それを感じられない辛さの状況で生きていくことに辛さを感じてしまい、それゆえに命を絶つことは、過去に置いても、太宰や芥川、川端にしても、見られることです。孤独意識といえば、単純な言葉の置き換えですが、それも胡散臭い表現です。

 では、胡散臭くない表現とは何か。それは論理ではありませんね。感情です。論理で全てを解決できるわけはありません。むしろ感情の方が解決しやすい場合もあります。それは、胡散臭くないですね。言葉に力があると思いこむからですね。実際にはなくても。

 「死ぬな、生きろ」とは仕事上言うことはありますし、そう言うこともあります。真意でも。でも、そう言っている一方で、私の場合は、いざという死に場所を決めていたり、あるいは、いつ死んでいいようにしようと思ったりと、何かどこかで、引き金を引いてしまうそうになります。あるいは、引き金を引きたくないのかもしれませんし、あるいは、思い切って、という気持ちにもなります。
 ただ、その感覚が大分鈍くなっている。若いときは、ホームに立っているだけで、線路に吸い込まれそうな気持ちになりましたね。あるいは、人が多数いるのに、静かだと、叫んで静寂を破りたくなるような、違和感はありました。結局はしませんでしたが。なぜかというと、それを自分が抑えてたからですね。権力としての行為に負けて。

 では、「さっさと死ねよ」と言わた場合はと考えると、そうはしないでしょうね。他人からの忠告や進言で、実行するわけではありませんから。そのきっかけは、他人でも、実行のきっかけは自分ですからね。

 こういうことはディベートのテーマになるかもしれませんが、そうなったとき、テーマになったとき、胡散臭さを感じますね。ディベートにすること自体がすでに権力構造にはまってしまっていますから。

 で、私は「生きるほうが戦争」とか「生きろ」とか言えるかというと、立場上は言うでしょうね。胡散臭いまま。ただ、心の中では、「死ぬ」人の心情には敬意を払っています。「平家物語」などのストーリーや、その他の場合にてもですね。

 今、自分は死にたいのか。はっきりとしていません。まだここに書いていますからね。書いていて、死ぬことはないですね。それこそ胡散臭いから。死ぬときは、ここには書きませんからね。書いたら、それこそ、恣意的な権力行動をしてしまいことになりますから。ただ、言えることは、いつ死んでも、仕事の代わりはたくさんいますから、仕事での存在価値はないですし、人口が一つ減りますし、それは環境上いいことですね。で、悲しむ人がいるから、と言いますが、何年かしたらそれも穏やかになります。生きていれば記憶は薄らぎますしね。そして、100年もすれば、すべの記憶から消えますしね。まあ、そういうものです。

 そして、ボジティプに生きたくないかというと、そうでもないですね。生きてみたいという気もしているわけです。8年前の飛ぶ鳥を落とす勢いでがんばった頃ですね。あの頃が懐かしいことはあります。知識が格段に増えましたからね。考え方も。じゃぁ、上の考えは何かというと、それまでですね。それとは、何か。地平と同じです。

 結局の所、私自身が一番、胡散臭いのですよ。机上の空論ですからね。それにまだこの時点では生きているから。

 ときたま、昨日までの脳天気な自分が、恐ろしく感じますね。なんて、無駄な文章書いているのかと。まあ、それも自分だからしょうがない。

 ただ、このサイトに関しては、突然閉鎖ということは、突発的な事故死でない限り、しない予定です。

 それにしても、低い一日でした。

 3:50就寝、6:50起床、3:00睡眠。


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