境界を越えるということがあります。一つのジャンルではとどまれずに複合していくことですね。特に、webはそうですね。文字だけの文化ではなくて、そこに絵も入れば動画も入る、そして音も入る。そういうさまざまな媒体、内容が入り込んでいく。今まで活字文化の世界が、どんどん活字ではなくて、電子媒体になっていきます。テレビゲームがそうですね、ビデオゲームともいいますが、一つの典型で、動画がゲームに入ってきたわけです。いままで静止画のゲームが動画となるのは、もちろんアーケードゲームにはありしたし、縁日にも金魚すくいなどの動きのあるものはありましたが、それらをさまざまな要素、視覚的、聴覚的などの複合感覚に訴えるという点で、それがいろいろな人を介さないという点で独自なのでしょう。
『Delphiマガジン』の33号に、「パソコンの本フォーラム」の塩見さんが書評を書いているのですが、その中に『萌える英単語 もえたん』(三才ブックス)がありました。プログラミングの本に英単語というのは、奇妙に感じられるかもしれませんが、「AERA」にも紹介されたことからも、一つの文化の移り変わりと捉えた方がよいようです。塩見さんは的確に指摘していて、
「受験参考書という「様式」が萌えの世界に入り込んできた」
とこの現象を捉えます。その通りですね。受験産業にオタクが入り込んだのではなくて、受験産業がどこか胡散臭いことに気づいてしまった人たちが、その本質とは何かを捉えたら、学ぶ楽しさであること、それを取り戻したというのが正しいのでしょう。本来、楽しいというべきである、学ぶこと、新しい知識を得て、新しい知見を生み出すことの楽しさがあるはずのに、いつの間にか、それを一定量で知識があるように思えてしまう悲しいことになってしまい、その悲しさから離れて、本来の楽しさはどうすればいいのかを考えたのでしょう。いみじくも塩見さんは受験文化とオタク文化がどっちがましかという問題提起をしていますが、たしかに、オタク文化の方が学ぶ・発見する喜びが大きいですね。受験文化は苦心の上に大学入学という切符を得ますが、その発見とは、与えられた枠の中での発見で、オタク文化に見られる、自由な発想や表現を尊重する所の発見ではないのです。萌ということが一般に流布した、ある一部の掲示板で使われた言葉が、社会通念として使われていくこと、それが問題ではないのです。受験についての胡散臭さがすでに受験生側から気づかれてしまったことを意味しますし、その受験社会、受験文化を創り上げた大人の浅はかさを知られてしまったのです。もう、以前と同じようにするわけにはいきませんね。
映画の台詞や本のいち部分というのは、意外と覚えているものです。それは、自分が意識的に興味を持って記録した言葉だからでしょう。本心から、そう思えるから、よい行為なのですね。自分の観点との対比から自分を相対化できるかどうかが、これからの生きる人たちへ課題ですね。
いつものことですが、昼間は眠いですね。パソコンに向かっても、突然、目が閉じてふと意識をなくすことがあります。少し横になればいいのですが、今日はそれでも治らず、ぼおっとしていることが多いので、早めに就寝しないといけませんね。
風呂上がりに鼻血は出やすいてすし、乾燥による肌荒れは以前治らず、睡眠時間は大切です。思考を停止している状態かでら普段の自分から脱却できるかもれしませんね。 これを打っているときも、通り視界がなくなりますね。これを文化というか、特殊能力として見るか、具合の悪さを感じてみるか、さまざまですね。
本日購入の書籍。
○ジョン・ダワー『増補版 敗北を抱きしめて』上下 岩波書店
○『日本近代文学評論選』岩波文庫
○巌谷大四『東京文壇事始』講談社学術文庫
5:50就寝、7:10起床、1:20睡眠。
朝食、ごはん、納豆、卵。昼食、おにぎり2個、みそ汁。夕食、湯豆腐、いよかん。夜食、なし。 |