鴛鴦呼蝉庵日乗
2005.04.12  主体性

 同じ事の繰り返しですが、相対的な美についてです。
  桜の花を見て、美しいと感じます。でも、海外の人で、桜の木を知らない人が見たら、不気味かも知れません。花だけ白く咲くからです。となると、見る人の文化や地域によって桜の花を美しいと感じたり、そうでなく感じることになります。文化や流行が影響しやすいのかもしれません。美人というレッテルでだれを想定するかというと、藤原紀香や松嶋菜々子などが挙げられるようです。でも、その藤原紀香が平安時代に美人かどうかは不明です。下ぶくれで細め鉤鼻ではありませんから、美人のうちには入らないでしょう。となると、時代とともに美人認識が変わることになります。
  つまり、素材に美はなく、見る側がその素材に美を見いだす、ということになります。相対的な美意識、美感覚があってこそ、美を認識でき、それは、その人の個性だけではなく、生まれてきたこのかたの美に対する地域や社会の文化的な感覚も含まれています。だからこそ、受け手に依存するわけで、受け手はもっと美に対する意識を磨かねばなりません。美の対象に責任を押しつけるのではなくて、美しく見えるように感覚を磨く事が必要なのです。

 本や漫画やイラストやアニメを見て楽しむのは、自分の範囲で見ることで、価値観を変える必要はなく、鑑賞した後で価値観が変わることはあっても、変えて読むことはありません。価値観を変えて読まねばならぬのは勉強の姿勢であって、それだからこそ、読み手は価値観を広げていく姿勢をとらねばならぬのです。他人とのせめぎあいの中で、自分の価値観を広げられるかが鍵です。

 すでに私たちは虚構を虚構として認識できるスイッチを持っています。だからこそ、映画で殺人のシーンがあってもそれを日常に取り入れることはありません。ダンボがことばをしゃべっても、アメリカの映画俳優がテレビで日本語をしゃべっても、それは吹き替えなのにその人が話したように感じます。それは既に虚構のスイッチが身にあるからです。そのスイッチをもう一度再構築する必要があると思います。再構築することは、価値観を広げることで、それは理解だけではないのです。

 正確な読み取りは必要です。正しく読むことはいつでも期待されていました。しかし、正しく読むことは洗脳にも似ています。だから、正しく読むことは、正しく読むという形式の向こうにある、自分で意見を考えるという世界に行き着くことが必定です。それができないと、読み取り、思考、表現という過程を経ることが出来ません。それが問題です。
  現実の社会を乗り越え、新しくよりよい社会にするには、現実社会を分析し、欠点を探すことになります。現状を否定することから肯定へ移相する、それが現在の社会的な分析と向上です。ですから、他人と、集団とで従順でるあるからいいとは限らないのです。否定的な意見を積極的に言えるかどうかは、その社会や地域への還元です。

 この考え方は、閾値、表現発表、へと続きます。これらについては、またいずれ。

[今日の記録]
睡眠時間:2:30就寝、7:00起床、4:30時間。
天候:雨。最高気温9度。湿度80%。
花粉症:ほとんどなし。

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