2005.05.23 教育を扱う意味 | |||
風邪の症状なのですが、もしかしたら、花粉症なのかもしれないと思いました。かなりの時間、花粉症はなかったのですが、別の花粉が出てきているのかもしれません。 まな板を買いました。今まで使っていたまな板は8年近く使っていて、プラスチック製なのですが、表面のはがれがかなり見られます。で、これを洗ったあと、立てかけておくと、どうも白いしずくがたれるのです。材質の中身が出たのかと思い、買い直すことに。スーパーなどでは1000円弱で帰るので、買い換えはもっと早めでいいと思いました。テレビなどと同じく、毎日使うものですから、頻繁に買い直すことが必要です。 中央教育審議会で、科学教育と国語教育の重視が発表されました。だんだん、あぶない方向になりつつあります。まったく、戦前と同じスローガンです。戦後の教育史をよく見直していないのと、子どもの実態調査が不十分だからの発言かもしれません。このあたりはよく注意しないと、いけません。小学館の冊子、「本の窓」の編集後記にも教育について言及がありました。こういう言及はどんどんすべきです。ただ、注意するのはデータを元にしているのか、それとも全体的な印象としての批評かということです。教育学はデータをもとにして発言します。世間一般では、自分の体験を中心して話します。このあたり、区別すべきなのですが、同じ教育という議論にするのは、気をつけた方がいいと思います。印象や経験の方が語る言葉に情感が入るので、説得力を増すからです。論理的な整合性と説得力は少し別な次元ですから、注意が必要です。 また、電波時計がくるっていて、前回、くるった時に地震があったら、ちょっと心配です。 虚構とは最終的には自らの描く世界なのだと思います。 リクールが没。いつか扱いたいと思っていました。 [今日の記録] |
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