鴛鴦呼蝉庵日乗
2005.12.31  大晦日の繰り言

 あっという間に一年が過ぎました。今年はという振り返りは得意ではないので、思い出すこともあまりなく、むしろ明日からの予定の調整が難航しているのが現実。まずは本の移設作業をなんとか15日までに終えないと、文献調査が完了しません。12日には文献の最終確認と調査をするので、その後にいろいろと考えることにします。ただ、今月中には一年間の予定の最終案を計画して、あとは突き進むのみ。

 年賀状を作り始めたはいいのですが、途中で住所変更の確認を、昨年の年賀状と照合していたところ、もうすぐ終わりというところで、ある方の住所の最後が2から5に変更になったを発見。ほんの数軒の移動だったようです。それで見落としがないか、もう一度確認したりしたところ、結局夜が明けてしまい、郵便の回収の第一便に間に合わず。いつもながら、年賀状を早く出した試しがありません。

 本の移設も途中段階。30%程度。一般書については全て処分することに。半分は新古書店に売って、半分は廃棄。しかたないことです。その本を求めている人もいるのでしょうけど、でも、廃棄することも一つの決断。儲けるというよりも、再利用のために古書店に売りますが、大した額にはなりませんので。
  その中でも、AAに関する本は全て揃っていることに自分でも驚きです。特に、アメリカでの版と日本の岩波の版、実は両方とも印刷はアメリカの同じ出版社でなされていたので、日本語と英語の違いだけで、印刷は同じ業者ですから、おなじ本だと言えます。あとは好みの問題ですね。原著を買う必要もないのでしょう。ただ、なぜか日本語版の方は印刷が若干ぼけている感じがします。科学的な根拠はありませんが。Imagesもwildnessも両方とも比較した結果です。

 橋本先生から喪服のご連絡。大村はま先生のご逝去ということなのです。大村はま文庫の実質的な創設者ですから、大村はま先生との関わりも深いのでこのようになさった心意気がさすがです。

 MIFESで、行ソートの詳細なコマンドがないので、マクロを探しましたが、なかなかありませんでした。それと、全角半角変換について、数字のみとか記号のみとかいうのがあればよかったのですが。この点は秀丸で使うことに。どこかにそういう機能があるのかも知れませんが、今のところ不明です。もっともこの点だけでしたら、テキスト削りを利用した方が早いのですが、ただ、コンパイルし直していないので、動作が不安定なのです。いずれ手を入れる予定です。

 ということで、2005年の執筆もここまで。2006年はどうするか迷っていましたが、今の所、継続することに。やめるのはいつでもできるので、別にここに書いたことを利用して何かをするわけでもないので、区切りはいつでもいいということです。
  世の中ではブログが流行っていて、有名人のブログだと一日に2万ヒットだとか。そういうのは読ませるためにあるわけですから、それなりの宣伝効果を生むわけです。ならば、こういうブログを企業が利用しない手はないわけで、ユニークな社員に企画・製造・サービスなどのいろいろな点のブログを作ることはいいことではないかと。むしろそういう公開する姿勢が世の中からは共感される場合もあります。もちろん、本当に必要な情報は本筋から取るわけですから、筋さえ違っていなければいい効果を生みます。
  その反面、公開する、宣伝ではない個人的な吐露としてのものもあるわけで、自分のためというのもあるでしょう。あるいは書く事への練習という面もあるわけで。ならば、なぜ公開するかということですね。
  書くことはすでに公開することになっているのです。それが自分一人ということか、他人を含むという数の問題で、その数の問題を区別する、つまり単数か複数化の区別よりも、書き手と読み手という区別で考えるのならば、公開するかどうかというよりも、自分で確認する場合では、固定された接続先だけではなく、外からも確認できるという意味で、特別なフォルダーよりも、ネットの方が便利です。その意味では、公開するということは、他人から見られるわけですが、その見られるということも含めていくと、書き手と読み手という構造で処理できるのです。その処理できることから、書くことを公開するということは、読み手としての認識を生むわけです。
  もっと、実際に書き手が読み手となるのは、書いて完成されたまとまったものというよりも、書きながら読んでいることになるわけで、書き手が読み手として重なる時は、ほぼ時間的にずれはないのです。その場に於いては。後から見るのは確認のためにもなるのでしょうが。
  それゆえ、ネットで公開するということは、誰に読まれたいかと言うこと、それをよく尋ねられることもありますが、誰がということではなくて、書くと言うことで存在を自分に示しているというのが事実だと思います。
  学生の頃に友人が日記を書いていて、その日記を書くことは別によかったのですが、その日記を読ませるということがあって、その時にどうして過去のことを掘り返すのか。反省と言うことなのか、自己確認のなのか問うたことがあります。その人は日記を書くのを止めましたが、なぜ止めたかもよくはわかりませんでした。書くこと自体は懐古ではなく、書くと言うことの記録性があるわけですから、書き続けていくことは、自己への記録性であって、それを読まなくても、書いていくこと言うことが実は文字文化の基本的な活動なのです。それらを含めて言語生活と考えているのですが、しかし、この概念についてはもう少し丁寧に説明しないといけないので、そのうちにまとめないといけません。
  かといっても、随筆のように、流れるように書いていくこと、それが読み手の反応を意識しないで、意識するということを離れていくこと。そこにもしかしたら、書くと言うことの意味があるのだと思います。詰まるところ、書くことは、自分が何を考えているかということをその時に確認することだと思います。懐古ではなくて。ただ、懐古の意味が付加されることは別におかしくもないので、そられの多用な意味が付加されることもありうるのです。ただ、書き手と読み手という基本構造には替わり有りませんから。そして、その書き手が書き手の意識構造を超えたときにこそ、その書き手は書くという行為が自己の行為を超えていくこと、書き手が読者の範囲を超えて、書くという行為が言語生活として向上していくことになります。新しい文字や単語を覚えるということではありません。言語生活の向上と識字、識語の問題とは範囲が別であること、それを踏まえることで、言語生活を理解しやすくなると思います。

 ま、どうでもいいことですが。別に書いたからといって、事故が減るわけでもないですし、戦争がなくなるわけでもないですし、死なないわけでもないわけですから。だから、書くことに意味があるのです。

 ともあれ、書き続けてきたことは意味があると。それと読み続けたきた人にも意味はあったのです。この文章の意味とは別に。言語生活として。

[今日の記録]
睡眠時間:10:00就寝、14:00起床、4:00時間。
最高気温:7度

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