別にパルコ歌舞伎ではないのですが、そんな雰囲気のタイトルになってしまいました。高田馬場では、染五郎、亀治郎の活躍がよかったです。
ふたたび、歐陽詢ですが、なんとか解決できそうです。昨日の夜の段階で、下記の文献などから調査しようとしました。
清-孫承澤-庚子銷夏記
清-陸搶ヒ-八瓊室金石?偽
宋-王ァ-汝帖
宋-宣和書譜
宋-宋樵-金石略
宋-陳思-寶刻叢編
宋-博古堂帖存
宋-歐陽修-集古?跋尾
宋-潘師旦-絳帖
宋-趙明誠-金石?
唐-張?遠-歴代名畫記
明-朱長文-墨池編
明-董其昌-戲鴻堂法書
駱天驤-類編長安志
で、その前に今日一日、中国のサイトを調べていたら、「郎官石記」が右司員外郎の陳九言が書いたことが分かりました。で、陳九言は開元年間(713〜741)の人です。次に、張旭が「郎官石記序」を書いたのが714年。拓本にあった歐陽詢が書いたのが「貞観元年」(627年)。歐陽詢は641年に没しています。つまり、歐陽詢の死後に書いたことになります。ということで、贋物ということがわかりました。すると、「宣和」「内府図書之印」もあとから証拠固めで付けたようです。あとは、「全唐文」から陳九言を調べると、「郎官廳壁記」の文章があって、それと交合できました。
しかし、贋物ということだけではなく、このような贋物が作られるということは、今に作られたか昔に作られたかはわかりませんが、それだけ歐陽詢の書に対する信奉が厚いということがわかります。王羲之の「集字聖教序」は王羲之が書いたものでなくて、文章に合わせて王羲之の字を集めたものです。その例からして、歐陽詢が書いたものとして見せかけるのも、信奉だと言えるでしょう。ということで、原稿案が次のように完成しました。
「淳化閣帖」「三希堂法帖」「歐陽詢全集」いくつかの法帖など、調査費用は2万ちょっとでしたが、こういう原典探しの方法がわかったので、学習費用ということだと、安い物です。
歐陽詢「郎官石記」拓本
初唐の書家、歐陽詢(おうようじゆん)(557―641)は 書聖といわれる王羲之を学び、虞世南・?遂良とともに「初唐の三大家」と呼ばれています。とくに楷書に優れていて、「九成宮禮泉銘」は楷書の名品と言われています。学問文芸においても活躍し、文芸的な文章を集めた勅撰の『藝文類聚』100 巻を編纂しました。唐の高祖と太宗に仕え、太子率更令(皇太子の養育係)にまで出世しました。
この文章は唐の官庁の壁に書かれた重要な文書を集めた「郎官庁壁記」別名「郎官石記」の序文で、陳九言が書きました。多くの複製を作るために、石に刻んだ文字を拓本に取り配布することが多く行われていました。現存しているのは、張旭が741年に書いた序文の拓本のみです。
この拓本は、歐陽詢が書いたもののように見せかけたものです。張旭は行書と草書を得意とし、唯一の楷書が「郎官石記序」です。その筆跡は歐陽詢の影響が大きく、それゆえ、歐陽詢の「九成宮禮泉銘」などの文字を集めて作られたものです。この拓本の終わりに「貞観元年」(627年)とありますが、本文を書いた陳九言は開元年間(713〜741)に活躍した人ですから、偽物ということがわかります。また、本文の最初の「夫」と「領袖」より後の文章が削除されています。また、右端の「宣和」「内府図書之印」の印は宋の徽宗皇帝の時に集めたものに押される印ですので、それほど貴重であると印象づけたものです。これらのことは、偽物というよりも、歐陽詢は今でも絶大な信奉があることを示しています。偽物というよりも、良いものは良いという考えがここに込められていると言えるでしょう。
ようやく夜なべ仕事が一つ終わります。
[今日の記録]
睡眠時間:5:00就寝、10:00起床、5:00時間。
天気:雨
最高気温:26度
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