最近、TeXをインストールし、論文などの有効性を検討しています。特に、国語学・国文学・国語教育(日本語学・日本文学・日本語教育も含む)では、論文作成にどうしても不可避な壁があります。それは、文字種です。最近「文字鏡研究会」が文字鏡フォントを公開しました。これにより6万字の漢字が使えるようになりました。また、ワープロが原稿作成の道具の域を超えないので、組版作成としての役割のソフトが必要となりました。アウトラインフォントの登場により、より美しい組版ができるようになりましたが、しかしながら、ワープロではできないことが多くありました。現在、いろいろなスタイルを調べています。これにより、本来持つ日本語文字の美しい組版ができることを期待しています。 (1999.6.27a)
おおくの人がホームページを開設して、中には、とても貴重なデータをダウンロードできるようにしているのもあります。今までは特定の人が作成していたデータが、今や、多くの人によって作成されます。
しかし、その開設している人が亡くなった場合、どのようになるのでしょうか。私の場合でも、ホームページからソフトをダウンロードできるようにしていますが、私が死んだ場合は、プロバイダーとの契約も終了し、このホームページエリアも消えることになります。幸い、ベクターの方にアップロードしている場合は、そのデータは残ります。そのことを考えると、データのアップロードは期限性があるということです。このことを考えると、公共のデータとして個人データの公開ができるような機関が必要となるでしょう。いわば、公衆データ送信可能バンクというものです。もちろん、さまざまな利害や法的規制が関わることですが、データがあってのこのインフォメーション・ネットワークですから、そのデータがなくては話になりません。
ここのジオシティーズさいとも、3ヶ月更新をしないと、削除されます。そうなると、データ公開とは、どのような意味になるか、もう一度考え直す時が来たようです。 (1999.3.18a)
様々なソフトが生まれ、自分にあったソフトを選び。そういう時代が来るときが、ソフトの文化が成熟に向かう時だと思います。もっと、もっと、日本文化にあった、人々にとって使いやすいソフトが誕生できればと思います。そして、使う人と、作る人との間に、何か一つの認識と理解が成り立つとき、このソフトの文化はいい方向に醸成されます。
しかし、ソフトは永遠ではありません。ハードによって、左右されます。DOSプログラムでも多くの優秀なソフトに出会いました。しかし、Windowsには移植されませんでした。結局そのソフトは別のソフトに立場を譲ったのです。ソフトは別の使いやすいソフトが出るとその使命を終えます。ソフトも栄枯盛衰があるのです。今だから、Windowsですが、それが変えるときも来るかも知れません。それはわかりません。
パソコンは道具です。あくまでも主体は人間です。人間にとって便利な機械であるべきです。ソフトももっと、便利で使易いべきだと思います。私が開発するソフトも今後もなるべく使易いよう工夫したいと考えています。そして、いつか私のソフトも別の優秀なソフトにとってかわり、ついに開発の使命を終えます。それも、文化です。私のホームページも私が死ぬと同時にクローズされます。それまでのこの情報が一切消え去ります。インターネット社会での一つの恐ろしい出来事は、個人ホームページの情報が、その個人の生命と同時公開であり、その個人が亡くなった時に、情報もネットから消えてしまいます。このことに、もっと早く気が付くべきでした。情報化社会の一つの関係です。無くなる情報があるから、新規の情報があります。無常という一つの有効な情報の更新手段がこれから大きな渦となって、社会を取り巻いていきます。 (1998.12.24b)
ソフトはバージョンアップのたびに進化して行き、機能が増えていきます。ジャストシステムの「一太郎」がその例です。しかし、機能を増やすと使いにくくなるという壁があります。「一太郎「がそうだということではありません。「一太郎」は進化して私にとって使いやすいものになっています。しかし、一般的に私のソフトも含めて、進化していくことで、機能が増えてしまいます。その結果、使いにくくなることもあります。
パソコンはまだ、使いやすいものではありません。多くの人が使いたいが、どうしたらいいのかわからない状況です。ビデオやテレビと同じように使えれば、もっとパソコンは普及されるはずです。
ソフトと機能の強化の部分。その反対として、DOSの頃の「一太郎」、その前の頃の「一太郎」の使いやすさは、キーによる操作で、マウスの操作よりも、数倍も速く編集できました。その結果でしょうか。「一太郎」は「Lite」を発表しました。界外さんの「NextFTP」もフリー版が登場しました。これからは車と同じように、同じソフトでありながら仕様が違うソフトが出てくると思います。選択の余地が増えること、使い手の都合によって選べるソフトが開発されるのが、1999年から始まると、私は感じています。 (1998.12.24)
Windowsのメニューは階層的に出来ています。ほとんどが、
ファイル 編集 ×× ×× ×× ヘルプ
となっていて、またサブメニューができています。ファイルはファイル操作を意味しますが、「終了」や「印刷」までがファイルの概念になっています。はたして、これはわかりやすいものでしょうか。「印刷」がファイルメニューに入っているとは初心者にはわかりにくいものです。ワープロ専用機が今でも需要が高いのはその操作性が高く、使いやすいからです。一番使用するコマンドがメニュー一覧となっているのが、そのわかりやすさの一因です。
メニューの分類を日本独自のものにすること。それは、決して国際化に反するものではなく、日本語でのWindowsをより使いやすくするのです。海外とは違ってタイプライターからパソコンへと推移したのではなく、和文タイプ->ワープロ専用機->パソコンと推移した日本では、メニューも基本的に違って当然ではないでしょうか。
しかし、そうはいってもすでに決まってしまったユーザーインターフェイスは、その通りにしないと低級なソフトに見られがちです。ソフトはその地域の特性を表します。ソフトは文化です。それゆえ、その地域特性にあったソフトがあってよく、それなら、地域特性にあったメニュー、インターフェースがあってもいいのではないでしょうか。
(1998.11.16)
NEC PC-9821シリーズですと、Windows95をプリインストールしている場合が多いでしょう。でも、ハードディスクは結構いっぱいになっているはず。そこで、HDDを増設して、Windows98をインストールする方法を紹介します。しかし、機種によっては違っていますから、よく、雑誌などで調べて下さい。
前提条件:A: B: ドライブで、HDD(IDE)の増設が可能な場合。Windows98を増設したC:で起動し、Windows95と共存させます。
けっこう大変かもしれませんが、これによって、かなり便利なります。あとは、辞書の設定など面倒ですが、ゆっくりバージョンアップしましょう。A:やB:はそのまま残しておいて、不用なソフトはアンインストールし、もしもの場合はWindows95で起動できるようにしておくと安全です。また、B:はデータディスクとして固定しておくとよいかもしれません。 (1998.11.16)