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「書」とは何か。かくかいは次のように定義しました。
「人 が 記 録、伝 達 の た め に 文 字
言 語 で 残 し た も の」
万葉の時代では万葉仮名という表記が行われ、鎌倉時代では漢字仮名混じりの表記となり、明治の小学校令より今日の仮名に統一され、その他の仮名は変体仮名と称され使用されなくなりました。では現代我々はどうかと考えますと、漢字、平仮名、片仮名、アルファベットなどを混在させて使用しています。漢文体は読めてもそれを日常に使用することは殆どありません。もし、現在でも日常で使用していれば、それも「自分のことば」ということになるでしょう。「ことば」を二つに分けてみます。
a.使用語彙 普段使っていることば(会話、手紙、ノートなど)
b.理解語彙 理解することができる言葉(英語、古語、C言語など)
これに内容の面から分けてみますと、
α.オリジナル自分のオリジナルのことば
β.既 出 他者のことば
たとえば、唐詩などをすらすら暗唱出来ることは、b+βなのです。
a+α 日常使うことばによる自分のオリジナルのことば
a+β 日常使うことばによる他者のことば(近体詩や、歌謡曲の歌詞など)
b+α 古代語、あるいは外国語による自分オリジナルのことば(漢詩を詠むなど)
b+β 古代語、あるいは外国語による他者のことば(「源氏物語」や「ロミオとジュリエット」など)
もし、日常外国語を使用していれば、それはaになります。かくかいではこのa+αに限定するつもりです。今の自分を今の「自分のことば」で、今の「自分の字」で表現するのです。
「ことば」と「メロディー」がひとつになって歌がうまれます。よくカラオケなど騒がれていますが、あれは他者の歌詞とメロディーを自分なりに唄いあげるわけです。「書」においては臨書がこれにあたります。替え歌が倣書です。ではメロディーを替えるのはどうかというと李白の詩や業平の歌を自分なりに書くということです。シンガー&ソングライターは自分の歌詞に自分のメロディーをつけて自分で唄うのです。短歌では齋藤茂吉が「短歌写生の説」で「実相に観入」することで、自ずからのことばでうたいあげると説いています。詩では石川啄木が「食ろうべき詩」において「両足を地べたにつけて」自分のことばで詠むべきと説いています。中国の明清の文人の多くは自分のことばを書いていました。レポートや論文、作文も他者のものを抜き書きして作ると、うまく表現できなかったりします。もちろん自分のことばでは言いたいことを全て表現できるとは限りません。むしろ他者のことばの方がより自分の心情を表せることもあります。ですが、かくかいは表現し得なくても「その時の自分を表現できなかった」ということで、その時の自分が表現できていると思うのです。はじめから完全な人はいません。「まだ未熟だから」という声もよく聞きます。たいがい謙遜と恥ずかしさからきています。人間の完成は死ぬ瞬間です。未熟でも今の自分を残すということをしてみるべきです。それも責任ある自分のことばでです。
自分の字とは何でしょうか。「集字聖教序」は王羲之の字を集めたものです。本もそうです。活字という誰かが作った字を集字したものです。ワープロも誰かが作ったフォントを集字して自分のことばを書いているわけです。メモや手紙、ノートなどの字が自分の字です。ところがその自分の字を他者の影響を受けていて、それに気が付かないでいることが多々あります。似せるのでも真似るのでもありません。
「自分のことば」で「自分の字」でかくとは自分の存在を示すことです。ですから、今、かくかいはここに多くの方がどのような表現で自分を示すかを確かめ、かくかいの存在を確かめるのです。
かくということはどういうことでしょうか。元々は「ひっかく」という行為からきています。「ひっかく」と痕が残ります。汗をかく、恥をかく、あぐらをかく、背中をかく。それぞれかくという行為ですが、何かが残るわけなのです。かくかいもこのことから命名しました。初め「書くかい?」と問いかけの気持ちでつけていましたが、かくという行為について考え、行動していくことを根本に考えるようになってから「かくかい」と名称を変更しました。1982年2月、主宰が早稲田に在学の頃、元箱根の松坂屋本店で行われてた東京学生書道連盟の合宿でかくかいは誕生し、今年5周年を迎えました。「書」についていつも疑問がありました。古典はたしかにいい、臨書も勉強になる。稽古も精神的に修行になる。しかし、いつも読めない万葉仮名や草書など、それも意味もわかっていない漢詩や和歌などを書いている。展覧会も謝礼がからみ、審査員の先生の顔色をうかがっている。しかし、それでいいのか。未熟ではあるが「書」を楽しみたい。いまのままでは体制の中に染まり、自分の位置がわからなくなるのではないか。など、さまざまな思いがかくかいを誕生させたのです。はじめ、「何故に書くのか」ということを突き詰めていきました。その結果「人が記録、伝達のために文字言語で残したもの」と定義できるようになりました。ですから基本的には読める必要があるのです。読ませないものは「書」の範疇ではないと考えます。多くの人が草書を読めた時代もあり、万葉仮名が日常であった時代もあったのです。今は今なのです。今のことばでかくべきなのです。もし、字の形だけを追ってゆくのならそのジャンルを確立すればよいのです。墨象は墨象というジャンルを構築すればよかったものを、「書」の範疇とした所に、そして、創作なのに先生の作品を真似しはじめてから駄目になりました。近代詩文もそうです。国語表記にかなった作品と言いながら、手本を書いたりしています。近代詩文の失敗はどうしても商業レベルに話を持って行った点あるのです。それに、筆墨硯紙を安く仕入れ多くの利益をむさぼる書道家など、罪悪ははびこり過ぎです。そんな現状に満足できなかったのです。
そしてまた、表現とはなにかを考えていました。世間がよいとされるものは、果して本当に価値有るものか、もしかしてだまされているのではないかと。たしかに赤ん坊にヨーロッパの絵画をみせてもそのよさはわかりません。人間は成長によって他の物と違うオリジナリティーを発見し理解するのです。そのものの「よさ」、それは他と異なることです。人で言えば個性が他人と異なること、絵画で言えばモチーフ・技法などが異なることが「よさ」ではないでしょうか。この違いを解るために、我々はたくさんのものを見、聞き、読むのです。この中でもかくかいは見ること、ビジュアルなものに重点を置いています。「今だから」こそ「ものを見る眼」「感じる心」「表現する力」を大切に、そして養っていきたいと考えています。
展覧会と言うとその流派に属していないと出せないとか、出品料や謝礼やいろいろな費用がかかっていて、かなりの苦痛でさえあります。この展覧会開催するにあたり、まず、作品については自由であることに心がけました。簡単なメモや石に彫ったりビデオに撮ったり掛軸であろうと額であろうと媒体、形態、用具については問わないことにしました。また、だれでもが出品しやすいように出品料も千円以内にしました。そして陳列についても区別しないよう先着順にしました。普段なら出品できない作品もここにおいては気兼ねなく出品できます。いかなる外部の団体の圧力を受けないようにしました。運営費は約50万余の赤字ですが、これを乗り越えて成功させたいものです。作品の点数ではありません。出品者の意識です。「書」は形とことばの芸術です。形にこだわれば絵になりますし、ことばにこだわれば文学になります。両方にこだわってこそ「書」たるのです。「今」だから「自分のことば」で、「自分の字」でかく展覧会。多くの方の出品、ご意見をお寄せ下さい。