NEWS 2000.02.21
[特集] 想像する恐怖
真夜中に、隣の部屋で音がしました。家には自分しかいないはずです。いったい、何が起きたのかと、耳をそば立てます。しかし、音はしません。もしかしたら、誰かいるのもしれないという気がしてきます。そして、その誰を特定していきます。友人か、親戚か、幽霊か、泥棒か...。そのうちに、強盗や殺人鬼かと思ってしまいます。自分が殺されるのではないかという気になってきます。
ここに恐怖という原理があります。恐怖とは、実際に見たものよりも、それを想像していく過程にあると思います。
テストが返却されて、思ったよりもひどい点数でした。落ち込んだ様子で、家に帰ると、台所で親が包丁を研いでいます。「ただいま」といっても親は黙って包丁を研いでいます。その時の恐怖はどんなものでしょう。これも、想像する恐怖です。状況から、その先を推理しているのです。その推理はこれから起こると思われる出来事の可能性を、一つのストーリーとして構成していくのです。
暗い夜道で、後ろから来る足音に恐怖を感じることもあります。もしかしたら、ストーカーかもしれませんし、強盗かもしれません。つい、足早になります。この行為も見知らぬ他人が自分に何をするかわからない恐怖です。知らないということの恐怖は、知ることによって安心や落胆などに変化します。幽霊話を考えてみましょう。日本の幽霊だと、だいたいお札で防ぐことができるようです。耳なし芳一でもそうでした。四谷怪談や皿屋敷など怪談もお札、つまり仏教上の呪文によって防いでいます。もし、これをドラキュラなどと比較したらどうでしょう。ドラキュラに対して、「南無阿弥陀仏」と唱えたり、耳なし芳一に十字架や馬蹄やにんにくは効くのでしょうか。どうもあやしいものです。つまり、これらのものはすべて宗教上の設定が必要なものであり、宗教での結果物とも言えそうです。その点、宗教に依存しない怪物は怖いのでしょう。たとえば、映画「エイリアン」です。これは、宗教をも超越したものであり、いわば、恐怖の集合体でもあります。無宗教であればあるほど不思議、不可解です。
これは人間もそうです。見知らぬ他人が自分に何をするか分からない。類型がないものほど、怖い者はありません。そしてその怖さとは、自分の不可解なるものの想像なのです。
いわば、恐怖とは自分で創り上げていくという意味で創造力とほぼ同じであると考えられます。創造力と違うのは、自発的に創造することはないということです。恐怖は外発的な影響によるものであり、自発的はほぼ出てこないことです。恐怖というものの本質を見ると、さまざまな推理や創造であるので、これをうまく使うことは、能力の活性化になるかもしれません。
パソコンを使うと、どうしても文字コードの壁にぶつかります。その文字コードのうち、各国の文字コードについて紹介したものです。特に、東洋にいながら、中国と韓国と台湾との漢字コードはどうしても障壁となります。その点も、どのような構造化は理解できるものです。しかし、障壁を取り除くには、別な行動が必要でしょう。この本は、よほど文字コードに取り組む必要がある人でなければ、図書館で借りた方がよいかもしれません。私は、時折使う必要があり、帯もはずして使っています。(ISBN4-501-53060-X)
Windows用のTrueTypeフォントである「文字鏡フォント」を収録したCD-ROMが付いています。MAC用の変換方法も出来ていますから、今は、このフォントで様々な文字が表記できるようになります。パソコンで多くの文字を使う方は、ぜひこれをお使い下さい。これは、TeXなどにも移植されていますので、これから汎用性が出てきます。私もすでに使用していますが、但し、日常的には普通のフォント、第二水準までで十分です。このことは、いずれ述べたいと思います。
(ISBN4-314-10136-9)
この本は、DTPオペレーターや印刷関係者が買う本なので、私のような門外漢には必要ないのですが、資料の一部として、あるいは印刷の知識としては、ちょうどよい本です。紙質がちょっとなじめないほかは、すぐに読み終わりますし、知識としては、十分に役立ちます。もちろん、私にとってはリファレンスではないので、頻繁に使用するというわけにはいきません。(ISBN4-88884-099-7C)