国民学校国民科国語の成立過程に見られる「言語生活」意識  [発表要旨]

第九八回全国大学国語教育学会 自由研究発表 第一日 2000(平成12)年8月3日(木) 全林野会館

2000.8.6
黒川 孝広


国民学校国民科国語の成立過程に見られる「言語生活」意識  [発表要旨]

黒川 孝広  

キーワード:言語生活、国語生活、国民学校、国民科国語、教育審議会、井上赳

1研究の目的
 本研究の目的は、国民学校国民科国語の成立過程に見られる「言語生活」意識について、その過程と内容を明らかにするものである。
 国民学校国民科国語についての研究方法として、共時的には主に次の4点に分けられる。
 1.教則の内容・成立(行政側)
 2.教科書・教材(行政側)
 3.指導の方法・内容(教員側)
 4.学習者の学習状況(学習者側)
この中にも細分化され、例えば教則の内容では、成立事情、他国の教育との比較なども入り、指導の方法・内容では地域ごとの比較や、社会状況の影響などの研究が含まれるものである。そしてこれら4点は通時的に比較する研究方法がある。例えば、成立過程について組織の影響力や、教科書内容の変遷などの比較研究である。
 国民学校における国語教育の先行研究については、野地潤家(1)、山根安太郎(2)の論考など数多くの先行研究がある。その多くは「指導の方法・内容」や「教科書・教材」の研究であった。また、国民学校当時では「教則の内容・成立」研究の中、教則解説や指導法の解説などの研究が散見される。「教則の内容・成立」でも、当時文部省の監修官であった井上赳は貴重な資料(3)を残し、それについては古田東朔の論考がある(4)。
 本研究では、これらの研究の中でも「教則の内容・成立」に着目し、国民学校の成立過程までの経緯を扱うことで、国民科国語の成立過程での「言語生活」意識を明らかにしていくことを目的とする。対象としては教育審議会総会と特別委員会、整理委員会の審議記録を扱い、その中から国語教育の問題となる点を抽出し、当時の教育改革意識と、国語教育に対する意識とを調査することにする。そして、井上赳の執筆資料や教科書編纂の資料をも成立意識の範囲として取り入れることにする。
 国民学校について唐澤富太郎は「ファシズム教育の典型」であり、国民学校時の教科書を「超国家主義」「ミリタリズム」(5)であると指摘する。戦時下においては、政治が軍国主義であっためにその影響があったことは事実であり、国民学校体験者はそのことを多くの著書で述べている。しかし、井上赳のように行政側にありながら教育の自由自主を守ろうとした人もいて、教育の内容を変えようとしたのも事実である。その成果としていままでの知識授与式ではなく、発見重視・活動重視の第五期国定教科書が成立すのである。この井上赳の意識を探ることは、国語教育の基本を探る上で重要な問題である。もちろん、その一監修官の井上赳の意識だけで、国民科国語が成立したとは考えられない。それを認めるだけの行政側の判断が伴うからである。当時の教育が「学校令」や「教授要目」によって規定されていることからも、行政側が教育内容を位置付けて、その上に教科内容が決定され教科書が編纂されたものと考えられる。井上赳は教育審議会の流れである一教科一冊の教科書というものに反して「コトバノオケイコ」など複数の教科書を作成するなど、当時の体制に反抗していったとしているが、しかし、教育審議会でもこのことは議論されていて、伊藤延吉は、
或程度マデ一冊デ行ク、学年ノ進ムニ従ツテ二冊ニスル、或ハ場合ニ依ツテハ三冊ニスル、或ハ国語ト云フヤウナ教材ニ付テハ何等カ特別ナモノヲ加ヘテ行クト云フ特殊ナ学科目ニ付テノ考慮モ必要
と教科書を一冊にこだわることはないと述べているのである。
 このように井上赳の活動は本人の認識とは別に教育審議会の内容を受けたものであり、その影響は否定できない。そうでなければ、文部省側が内閣総理大臣が諮問し答申した内容を無視した形となるからである。具体的な行政側の個人ごとの交渉についての記録は見いだせないが、教育審議会についてはその記録が残されていて、審議の内容を伺うことが出来る。井上赳は、この教育審議会を傍聴することができなかったので、その審議内容については知ることはなく、答申した内容のみ知ることになる。それゆえ、国民学校の大枠を作成した教育審議会の審議内容と、施行規則や教科書作成に関わった井上赳の論考とを比較調査することが必要であると判断したのである。

2教育審議会
 国民学校成立の契機となったのは、国力の膨張と思想混乱の対策であるとされている。戦争による産業促進による理由が大きいがそれだけではなく、明治以来の学校教育についての反省から、さまざまな意見が出されていたことによるものである。それゆえ、大正2年の教育調査会から、臨時教育会議、臨時教育委員会、教育評議会、臨時教育行政調査会、文政審議会、実業教育振興委員会を設置して立案に努力した。が、いずれも実現に至らなかった。義務教育の期間延長と、教育の刷新というテーマは政治の問題により、実現されなかったのである。そしてさまざまな社会思想が広まった大正・昭和初期になり、思想混乱を来した自由主義思想を払拭するため道徳の確立という観点から、昭和10年に教学刷新評議会が設置された。諮問された内容は「我が国教育の現状にかんがみ刷新振興をはかる方策如何」であった。そして答申とともに「内閣総理大臣統轄の下に有力なる諮詢機関を設置せられんことを望む」との建議を出し、その結果として昭和12年に文教審議会が設置されたが、内閣の都合で一度も開かれず廃止された。昭和12年12月に近衛文麿内閣はこの建議をもとに教育審議会を設置したのである。それまでの教育改革が内閣の更迭などにより、答申に至らなかったことから、この審議会の期待と、審議会員の意気込みは高まったと考えられる。
 教育審議会は昭和12年12月23日に第1回総会を開き、内閣総理大臣より諮問された、
我ガ国教育ノ内容及制度ノ刷新振興ニ関シ実施スベキ方策如何
を審議することになった。わずか一年足らずの昭和13年12月8日に青年学校、国民学校、師範学校、幼稚園に関する要綱を中間報告として答申することを決定した。その後昭和16年10月13日に審議会を解散するまで総会14回、特別委員会と整理委員会は約230回開催し、17の答申と4件の要綱・建議をまとめたのであった。当初、昭和14年から国民学校を実施する計画であったが、青年学校の実施が優先され、予算措置などから昭和16年に国民学校を実施することになった。

3国民学校国民科国語の成立
 国民学校に関しては昭和13年7月6日の特別委員会に初めて議論され、20回以上の特別委員会と整理委員会を経て、昭和13年12月8日の第13回総会で答申内容を決議したのであった。
 第1回総会で、文部大臣木戸幸一が代読する近衛文麿内閣総理大臣の挨拶の中で、当時の教育への批判について触れている。
負担ノ過重乃至画一化・形式化等ノ弊ヲ矯メテ、真ノ人物ヲ育成シ、創造的実践的性格を鍛錬スルノ要望モ亦切ナルモノガアルノデアリマス。
すでに昭和12年においても、「画一化・形式化」という風潮があり、それが批判の対象となったのである。このことは、審議会でもたびたび意見が出されている。第18回特別委員会で松浦鎮太郎は、
知識ヲ色々頭ニ憶エ込ンデソレガ手足ニ出ナイト云フコトデナク、其ノ知識ニ付テ十分ニ考ヘテ溌剌タル実行的ノ活キタ人間ヲ作ツテ行キタイ
と知識重視型から経験重視型への教育方法の変換が必要である由を述べている。それゆえに、学科を「カテゴリー」でまとめ、細分化された学科教育を統合し、重複する部分をまとめた「合科教授」をすることを目的としている。
 最初の案では、文科系の教科を総合した「皇民科」を設けられ、その下に「教材」として今までの教科内容を含み、教科構造を大きな枠に設定しようとした。国語科は「国語教材」として位置付けられ、教科としての「国語」は解体される予定であった。教科書も1年から4年までは「修身教材」「国史教材」「国土教材」「国語教材」「東亜及世界教材」を一冊にまとめ、5,6年ではこれに「公民教材」を加えて一冊にして学習するという案が出された。これは教科を総合していく観点と、小学校では一人が他教科を教えることになる事実と、細分化された教科内容にならないようにとの配慮であった。しかし、「合科教授」は1年生には有効でもそれ以上の学年では「能力ノ低下」が見られるとの意見が出された。また、森岡常蔵の意見では、
国語教材ニ於テ国語ヲ理解スルト同時ニ、其ノ国語ヲ今度ハ自分ノ方カラ書現ハス、或ハ自分ノ考ヲ国語ニ依ツテ書現ハスト云フ (中略) 今迄ノ方ノ国語科ノ中ニ於テ修身ヤ作文ヲ一緒ニ纏メテ国語トシテ置ク方ガ此ノ御趣意ニアル寧ロ知識ノ具体化デハナイカと思フ
とあるように、教科の独自性は過去の歴史から尊重し、各科は独立しつつ「合科」的に学習を行うことで有効な教育が出来るとの意見が出され、各「教材」は教科構造として残されることになったのである。
 この「合科教授」は後に「綜合教授」と書き換えられるが、これは「合科学習」の奈良女子高等師範学校など「綜合教授」を実施している学校の授業研究成果を基にしている。これらの研究から小学校2年生までに「合科教授」を実施するのが適当であると、整理委員会は判断した。それゆえ、国民学校には奈良女子高等師範学校の影響があり、そうであれば木下竹次や河野伊三郎の「国語生活」の概念が導入される可能性があるのである。
 第13回総会で特別委員会の委員長である田所美治は国民学校の設立趣旨の中で次のように述べている。
抽象的知識ノ詰込ヲ排除シテ、教育ヲシテ体験ヲ基礎トセル具体的ノモノタラシメ、以テ知育ノ徹底ヲ期スルト共ニ創造的且実践的ナル国民性ヲ陶冶スルニ力ムベキモノト存ジマス
この「抽象的知識ノ詰込ヲ排除」と「体験ヲ基礎」とするのは、大正期での国語教育者、河野伊三郎や木下竹次らの定義する「国語生活」の教育と同じ原点に立つものであり、そして遠藤熊吉や小笠原文次郎らの昭和初期の国語教育者の考える「言語生活」の教育と同じ原点に立つものである。
 井上赳は、「合科学習」との関係について、
大正昭和にかけて主唱、実行された合科教育、  それには木下竹次氏をしていわしめると、大合科中合科小合科とあるように申していましたが、国民学校教科書は、いずれの種類の合科教育にも、また生活指導教育にも、適応させようというのが、私ども担当者の念願でありました。
と述べている。これを見ても奈良女子高等師範学校などの大正自由教育の影響はあると言えよう。それは、木下竹次や河野伊三郎の「国語生活」の意識ではないにしても、知識重視から経験重視の教育、児童中心主義などの意識が共通している。大正自由教育から国民科国語成立への意識には共通した意識があると居てもよかろう。しかし、実際の国民学校ではこの意識が継承されたかは疑わしい面があり、井上赳の意識がどこまで教育現場に届いたかは不明である。

4研究の成果
 国民学校国民科国語の成立には、
1.知識重視型の教育方法から経験重視型の教育方法への志向
2.当時の大正自由教育の「合科教授」の影響
3.児童中心主義
4.国語科教科構造の必要
の意識があったとまとめることができよう。経験重視であることから、児童にどのような経験を与えるかを研究することになり、それが児童中心主義となるのである。児童中心主義は児童の生活を観察すことから始まり、児童の生活を中心とした教材となる。それゆえ、国民科国語では知識としての言語ではなく、生きた生活での言語のやりとりである「言語生活」意識が生じたと言うことが出来よう。その成果が「コトバノオケイコ」や「中等文法」に現れているのである。
 この「言語生活」意識は国民科国語だけではなく、他教科にも見られる。『初等科理科』教師用書では、「児童の生活に即応し、児童の心身の発達に伴ひ、個性に適応した指導をすること。」あり、教科書の記述も、稲について取り上げた第四期国定教科書と比較すると、
花はくきの上の方に、まばらなほになって集まって着いてゐて八九月頃開く。
とあったのに対して、第五期国定教科書では、
稲ノ穂ニ花ノツイテヰルヤウスヲヨク見マセウ。
花ハ毎日何時ゴロカラ開キハジメマスカ。
開イタノチ、花ハドウナリマスカ。
のように児童の活動を重視する内容となつている。この活動は、観察だけではなく、その観察結果を書いたり話したりすることになる。このように「言語生活」の場を活かした学習ができるようになっているのである。
 本研究により、大正自由教育での国語教育者の「言語生活」「国語生活」の概念、昭和初期での国語教育者の「言語生活」「国語生活」の概念と、同じ意識が国民学校国民科国語の成立過程にあったことが明らかになった。

5今後の課題
 いままでの研究により、大正初期より昭和戦前期までの「言語生活」の概念は知識重視から経験重視の教育と、児童中心主義、国語教育改革意識などの共通項により成立していったことが分かった。
 今後はこの意識が、戦後、あるいは西尾実、時枝誠記、輿水実、岩淵悦太郎の意識とどのように関係するかの以下の調査する必要がある。
1.戦後の学習指導要領での「言語生活」の概念
2.西尾実・時枝誠記・輿水実・柳田国男等の「言語生活」の概念
3.各種批判の視点(益田勝実・伊豆利彦等)
4.国語学での「言語生活」の概念


(1)野地潤家『話しことば教育史研究』(1980)
(2)山根安太郎『中等国語教育論攷』(1980)
(3)井上赳の資料は、「編集国語教育の回顧と展望」(1959−1960)、「国語教育の回顧と展望」(1951)などがある。
(4)井上赳著・古田東朔編『国定教科書編集二十五年』(1984)に「解説」がある。
(5)唐澤富太郎『教科書の歴史』(1951)


教育目次かくかいメインページ黒川孝広へのメール