2024.5.15
黒川 孝広
守屋荒美雄の初期教育論「生徒ノ自治思想養成法」 黒川孝広 はじめに 守屋荒美雄(一八七二(明治五)〜一九三八(昭和一三))の業績を概観すると、四つに分けられる。 一つが教育実戦者としてであり、初等教育と中等教育がある。 二つが著作者としてであり、一九八点の教科書を執筆し、また著書・雑誌の出版がここに含まれる。 三つが会社経営者としてであり、帝国書院の設立と運営が中心であり、蛍雪書院の事務もここに含まれる。 四つが学校経営者としてであり、出資、設立、名誉職としての校長、理事など教育実践以外が含まれる。(1) この四つは時間軸で区別できるものではなく、重層的に業績があり、特に年齢を重ねる度に業績を増やしているのは、常に向上心を持ち、挑戦し続けていた結果である。 教育実戦者 一八歳〜四九歳(初等教育一八歳〜二六歳、中等教育二六歳〜四九歳) 著作者 三一歳〜六七歳 会社経営者 四六歳〜六七歳 学校経営者 六〇歳〜六七歳 この中でも明確に時間軸で区分できるのが、教育実践者としての時期の初等教育から中等教育への転換期である。一八九六(明治二九)年、二五歳の時に上京し、その翌年には中等教育教員として活躍し、そこから六年後には教科書執筆を開始している。 そこで、一八九六(明治二九)年から一八九七(明治三〇)年頃の守屋荒美雄の動向について各資料から確認し、中等教育実践者に進む過程について明らかにする。 なお守屋荒美雄は、一八九八(明治三一)年に守屋荒三から守屋荒美雄と改名するが、本文記述では守屋荒美雄に統一し、引用時は原典に従う。(2) 一 上京の目的と文検 守屋荒美雄は一八八九(明治二二)年、一八歳で岡山県浅口郡西阿知町の西ノ浦高等小学校に受業生として初等教育の教育実践者として活動を開始する。その間、地理、歴史、代数、法律への関心が強く、代数に至っては遠くまで通い、識者に質問するほどである(3)。特に法律は早稲田法律学校の校外生(通信教育に相当)となり法律研究を始めるなど、学問への志が強かった。一八九一(明治二四)年頃には「高等文官試験」への志が生まれたと推察される。その後、岡山県の「文検」の予備試験に合格すると、上京し本試験受験を決意する。第一目的の高等文官試験は難関であり、その準備のため和仏法律学校に進学することも上京の目的の一つであった。 一八九六(明治二九)年五月、二五歳で上京すると、まず文部省教員検定試験を受験し合格する。 文部省総務局文書課発行の『教員免許台帳抄』(文部省、一九〇三(明治三六)には免許状番号が記載されている。 一六〇〇 明治二九年六月一〇日 中・高 地理(地誌)守屋荒三 師七〇九 明治二九年六月一〇日 師 地理(地誌)守屋荒三 八二二 明治三一年六月 三日 師・中・高 地文 守屋荒三 高等文官試験が第一の目的にもかかわらず、小学校勤務をすることになるのも、周囲のすすめに . よる。一八九六(明治二九)年六月に牛込区愛日小学校に勤務するが、高等文官試験に専念するために五ヶ月で辞任している。また、一八九七(明治三〇)年二月、二六歳で青森県師範学校に就任しながら、半年で帰京するのは、同じく高等文官試験の準備のため、和仏法律学校で勉学することを望んだからである。 守屋荒美雄は和仏法律学校を一九〇一(明治三四)年七月に卒業する。和仏法律学校は一九〇六(明治三九)年に法政大学に改組するので、法政大学の卒業生として記録されている(4)。この和仏法律学校卒業が縁で、一九三四(昭和九)年に法政大学の理事に選ばれ、法政中学校設立に尽力し、そこで学校設立について学ぶことになり、帝国教育学園設立に至るのである。 一八九七(明治三〇)年九月に西小川町にあった独逸学協会中学校に校長・大村仁太郎から招かれる。大村仁太郎は独逸学協会中学校の充実のため、高等師範、外語、学習院、陸軍学校から教師を招き、教師陣は地理・守屋荒美雄、国語・芳賀矢一・志田義秀・林敏介、歴史・津田左右吉、音楽・大村恕三郎・東儀鉄笛・東儀俊竜、生物・丘浅次郎、獨逸語・三並良・高田善次郎・小笠原稔・谷口秀太郎・武内大造・国吉直蔵、修身・山口小太郎・高島平三郎である。守屋荒美雄が高等文官試験の準備がありながら、独逸学協会中学校の教員を引き受けたのは、大村仁太郎の説得と、和仏法律学校への通学が可能な地理的な要因だと思われる。ただ、なぜ著名な教師陣の中に、一地方から上京した小学校教員の守屋荒美雄が対象となったのかは、独逸協会(現、獨協学園)の資料には見られない。数多の中等教員の中から、守屋荒美雄に白羽の矢が立てられたのは、守屋荒美雄が世に知られていたからであろう。 二 東京府教育会『東京府教育会雑誌』 一八九七(明治三〇)年に守屋荒美雄が世に知られる契機を、『守屋荒美雄伝』の年表から探すと、 「明治三十年二十六歳 此の年、東京府の雑誌「教育界」に教育的意見を発表して大いにその存在を認められる。」とあるのみである。この「教育的意見」は、『守屋荒美雄伝』には記載されず、守屋荒美雄の他の著書にも見られなかった(5)。 東京府に関わる教育機関としては「東京府教育会」がある。東京府教育会は一八八三(明治一六)年に「東京府教育談会」として創立され、その後、教育の改善を目指して教員のみならず民間の有志も参加し、一八八八(明治二一)年に「東京府教育会」に改組した。一九二六(大正一五)年に「東京府連合教育会」、一九三四(昭和九)年に「帝都教育会」と改称し、一九四三(昭和一八)年に「束京都教育会」となり、現在も東京都の教員と民間との一体となって、東京都の教育を推進し、一ツ橋教育会館や三楽病院の運営にも関わっている。この東京府教育会の機関誌が、『東京府教育会雑誌』である。同誌は一八八八(明治二一)年から一八九八(明治三一)年まで、一〇二号発刊され、約一三〇〇名の会員が購読していたが、中には、師範学校校長なども購読していた。全国的な雑誌ではないが、小学校、師範学校の教員の情報源であり、中には中央組織である大日本教育会に属している会員にいたことから、『東京府教育会雑誌』に名が記載されることは、「存在を認められる」可能性が高いと思われる。この『東京府教育会雑誌』を全巻保管している機関はないため、調査にあたっては、『復刻版『東京府教育会雑誌』(不二出版、二〇一七年一一月)と『東京府東京市教育会機関誌総目次』東京都教育史資料総覧第三巻(東京都立教育研究所、一九九三年三月)を利用した。 守屋荒美雄が上京した一八九六(明治二九)年からの『東京府教育会雑誌』を確認すると、一八九六(明治二九)一〇月の号に「守屋荒三」が東京府教育会に入会との記事が見られた。一八九八(明治三一)年六月に改名するので、「守屋荒三」であることと、所属が愛日小学校であることから、守屋荒美雄本人の記事であることが確認できた。 そこで、一八九六(明治二九)年一〇月以降に刊行した『東京府教育会雑誌』を確認すると、一八九七(明治三〇)一月発行の第八八号の「輿論一般」に「守屋荒美」名義の投稿があった。その他、現存する全巻を確認したところ、「守屋」姓の投稿はないため、「守屋荒美」の投稿は、「教育的意見を発表して大いにその存在を認められ」た守屋荒美雄の投稿であると判断できる。『東京府教育会雑誌』は欠号が多く、この後に確認できたのは、九〇、九一、九四、九八〜一〇二号で、いずれにも執筆はなかった。所在不明である、八九、九二、九三、九五〜九七号に掲載された可能性があるが、今後、発見されるまで待たざるを得ない。 守屋荒美雄と東京府教育会との関係を年表で整理したものが、次の通りである。 一八九六(明治二九) 二五歳 五月 一日 上京、文部省教員検定試験合格(地理地誌科中等教員免許) 六月二四日 東京市牛込区愛日小学校教員就任 一〇月 東京府教育会入会 一一月一九日 東京府小学校本科正教員合格 一二月二八日 東京市牛込区愛日小学校教員辞任 一八九七(明治三〇) 二六歳 一月三一日 東京府教育会『東京府教育会雑誌』八八号に教育的意見発表 二月二六日 青森県師範学校助教諭就任(地理科) 九月二二日 青森県師範学校助教諭退任 九月二三日 独逸学協会中学校教員就任(地理歴史科) 一八九八(明治三一) 二七歳 五月 文部省中等教員検定試験合格(地理地文科) 六月二九日 守屋荒美雄と改名(それまでは守屋荒三) 一九〇一(明治三四)三十歳 七月 和仏法律学校(法政大学前身)卒業 守屋荒美雄が『東京府教育会雑誌』第八八号に投稿したのは、「生徒ノ自治思想養成法」である。『東京府教育会雑誌』には主として研究者による「論説」、教育関係者以外による「学芸」、教育関係者・民間の意見である「輿論一般」と分けて掲載されている。就任・退任の記事もあり、その場合は本名「守屋荒三」で記載されているが、「輿論一般」は投稿記事であり、他の執筆者には天城散史、度水漁史などの筆名が使われることが多いため、「守屋荒美」というペンネームを使用したとも考えられる。「守屋荒三」から「守屋荒美雄」に改名するは、投稿した翌年の一八九八(明治三一)であるため、改名以前に「守屋荒美」の名を使うのは、現時点ではこれが初出である。「守屋荒美雄」ではなく「守屋荒美」としたのは、意図的か誤植かは不明であるが、むしろ「生徒ノ自治思想養成法」の執筆者名を「守屋荒美」としたところからも、世に知られることになり、「守屋荒美雄」へ改名した要因とも考えられる。 三 「生徒ノ自治思想養成法」 守屋荒美「生徒ノ自治思想養成法」『東京府教育会雑誌』第八八号(一八九七(明治三〇)一月)の本文の翻刻は次の通り。本文はカナ表記をひらがなにした他、旧漢字は新漢字に、明かな誤植は修正した。○生徒ノ自治思想養成法会員 守屋 荒美 仏のルイ十四世は朕は国家なりと云ひ、普のフレデリック大王は朕は国家第一の僕なりと曰ふ。日本紀に我 天智天皇も亦、朕は億兆の父母なりと宣へりと見ゆ。予輩は此口調を借り来て、直に教員を学校の君主なり、生徒の父母なりと云はんとす。 論者之を難じて或は曰はん。汚帽破靴妻子さへ哺ごくむこと能はず。平身低頭、一紙一筆さへも理事者の天機を伺はざるべからざるが如き現今の教員を、而か云ふは抑も愚の甚だしきものなりと。夫れ然り。夫れ豈に然らんや。予輩が斯く断言せんと欲する所のものは、上に対する処の教師にあらずして、学校及び生徒に対する所の教員其物を曰ふ也。 何を以てか教員を学校の君主なりと云ふ。 学校を起すも教員なり。学校を倒すも教員也。校盛んにして人材輩出するも、校衰へて人材後を絶つも、皆教員の勤むると勤めざるとに関す。換言すれば、教師の一挙手一投足は以て学校の盛衰消長に係る。学校を統御する処の理事者、彼れ何者ぞ。教師是れぞ真に学校を統御左右する底の君主なるぞ。 教場多数の児童蛙鳴蝉噪其静まる所を知らざるが如しと雖も、教員一たび教壇に立つや、群雀の一鷹忽ち四隅寂たり寥たり。教師一事を命することあらんか。唯々諾々、此れ命、此れ従ひ、一事成功せば、仰て論功行賞の褒詞を待つものの如く然り。 児童誤て墨汁を散す。除ろに之を拭かしめて過を責めず、一童会々礼を欠く。循々礼の何物たるを教へて、其罪を糺さず。 刑措ひて問はざること五十年に似たるの何ぞ甚しきや。一家五口妻は凍へて、寒に号ひ、子は飢へて粟に啼くも清廉潔白一物だも生徒に徴せず、課役を免じ租税を除く三年と、何ぞ択はんや。 衆童校門を出づるの癖あり、教師其不可なる理由を述べて罰則を示す。衆生之を賛して将来を謹む。 此れ立法組織に稍似たる所あり。太郎便所に在り、次郎後より之を擣く。尿水忽ち衣に迸る。太郎赫怒報ふるに唾を以てす。是に於てか是非曲直の判決を求む。司法の大権、夫れ何者の有する所ぞ。 正雄行を乱る、流涕頭を撫して改悛を口解く。校名高く昇りて荒夷八蛮の外に在るもの玉帛を取りて、入校すること勝けて、数ふ可からず。危険なるが故に木に攀づるな。人の愛せる草木を手折るなと、懇々諭し来ること、行政普及とさも似たり。知らず行政の大権は抑も何人の手に帰するやを。 書き去り、書き来らば、教師は益々神聖侵す可からざる君主の如くにして、而かも行政司法立法の大権おも統合し、時としては生徒を引卒して、三軍を叱咤することあり。此れをしも君主と云ふを迂なりと笑ふものあらば、予は更に其迂を笑はんと欲するもの也。 何を以てか教師を生徒の父母と云ふ。 朝な朝な来りて机に倚らんとするや、慇懃叮嚀礼を厚くして業に就く。猶ほ寝床を出でて挨拶をなし、父母の傍に楽しく翫物を弄するが如し。教師微笑を以て向へば、喜悦の情を以て答へ、教師遊歩場に出づれば争ひ来て袴を綻はし、羽織を破る其状賽の河原の地蔵も亦殆んど及ばざる可し宝にや。 先生と呼ぶ声音は、父よ母よと呼ぶの口調にさも似たり。予輩嘗て之を聞く。洋宗には父パパーと呼ぶものありと。何故学校に於てはパパー ママーと呼ばしめざるや風に冐さるるな、冷水を貪るな、熱に侵さるるな、病に掛かるなどは三千世界に子を持つ親心なるべしと雖も、教師の心痛も亦、此に及ぶ。見よ、一生偶然欠席す。若しや不時の厄ありしには、あらざるかとは予輩常の心事ならずや。 教師の児童に対する関係、前述の如し。此れを生徒の父母と云ふ。蓋し適評予輩の言の溢ならざるを知る。 事実、既に前述の如くんば、教師は慈悲なる父母として活.々地の子を希ひ、有識なる君主として掀天翻地の国民を望まざる可からず。 夫れ学校は無味に観察せば、一個の学校に過ぎずと雖も、深慮数番せば、生徒が家庭より社会に躍り出づるの一階級なり。 換言すれば此に社会の何物たるを解し得て、将来有為の素地をなす、大国民の下拵なり。校規を守るは国憲を重んじ、国法に遵ふもの教師に対するの敬礼は移して尊王となり、愛校は愛国となり、授業料は租税と変じ、朋友の交は世人の交りとなる。是に於てか我輩教育者の事業面白くして且つ価値あるものと曰はざる可からず。 予輩は固より口訥にして行敏なる教育者にあらずと雖も、又常に生徒をして自治自由独立独行の位地に立つ国民たらしむるを以て目的とする以上は、干渉、是れ至り。遂に優柔不断為すことなきの所謂.椅子を作るを避けん為め、生徒が為し得る限の事は、生徒をして自らなさしめんと欲するものなり。即ち左に列挙する所の者の如きは、或は以て此目的に合ふべき自治思想養成の方便たるに庶幾らんか。 (一)掃除 自己の汚せしものを自己の掃除するは自然の結果なり。然るに此れを学校の小使等に為さしむるは畢竟生徒をして怠惰ならしめ責を忘れしむるものなり。故に各自順番を定めて之を為さしめば、一方には右の害を除き、一方には社会は共同すべきものなるを知るの楷梯となる可し。 (二)水の散布、湯茶の配置 一は教場の清潔を希ふものにして、一は喫飯の時に必要なる勤なり。前者の理由と同じければ、又同じく生徒になさしむべきなり。(三)窓の開閉 空気の新鮮にして且温度の適宜ならんことを欲せば、窓の開閉に注意すべし。窓の開閉は窓下の生徒に任す。(四)敬礼の唱 教師其他敬礼すべき人に向って礼をなすべきために、級中品行方正にして、人望あるものを選挙せしめて礼の号令を唱へしむること。 (五)各生相互の注意 自己の悪なることを覚らず、猥に談語を試み、又は他見をなして学課に注意せざるとき、隣生徐に注意をなすこと。 (六)黒板を塗らしむること 黒板の黒白は以て教師の熱心なると否とを知るべしとは経験家の唱ふる所。毎週清書の時に残りの墨汁を塗らしめて不熱心の本色を現はす勿れ。黒板をして叨りに剥げ板の誹を免かられよ。生徒は喜んで此任に当り、己れ等のなしたる事として、此れが美を悦び濫書等の憂なし。 右に列挙するものの外、教場内にてなすべきこと一小国家の事とて多々此れ有らん。次に列挙するものは、教場外に属するものなり。 (七)級長 教場内に於て礼の号令を唱ふものか。或は更に互撰せしめて級長を置き、出入の号令をなし、或は生徒一人にて教場に入るときの届出を受けしむること。 (八)監督 登校帰校の途次、規律厳粛ならしめん為め監督の互撰をなさしむること。或は教師自ら任すること。嘗て予は此れ等のものを監督に任するの辞令を用ひしことありしが、其成功著しきものありたり。 (九)家庭にての注意 既に教場にても各自品行の注意をなさしむるものなれば、家庭に於ての遊びにも各自注意をなすことは朋友の情を温むること尠少にあらず。 (一〇)会合 学校より帰りし後に日課の温習をなす為めもよりくに会合せしむ可し。 右の各項は只心に浮びしことを記せしに、止れば決して目醒ましきものにはあらざるべけれど、又、実務の一助にもなり、教育の本旨に副ふこともあらん。大方の実務家幸に他に善良なる方便あらば、教示を惜しむ勿かれ。 【語注】 ルイ十四世 ……朕は国家なり( L'Etat, c'est moi)は、一六五五年四月十三日、最高司法機関高等法院が諫めたのに対して、「国民だけでいい。朕こそが国家だ」と言ったことによる。引用はヴォルテール『ルイ十四世の時代』(一七五一年)よる。フレデリック大王 ……プロイセンのフリードリヒ二世が述べた言葉。啓蒙専制主義の考えを示 す代表的な言葉として知られる。引用は『反マキァヴェッリ論』(一七四〇年)による。哺ごくむ……食べ物を口にふくむこと。蛙鳴蝉噪……がやがやしゃべること。群雀の一鷹忽ち四隅寂たり寥たり……雀のさえずりも一羽の鷹が現れると静かになる。掀天翻地……天に聞こえてひっくり返す。 四 守屋荒美雄の教育思想 「生徒ノ自治思想養成法」はその時代状況を抜きにしては検討することは難しいが、それでもここから守屋荒美雄の教育論の本質を伺うことはできるであろう。多く扱っているのは授業環境の整備の点であるが、その目的の部分では、明確に、 「常に生徒をして自治自由独立独行の位地に立つ国民たらしむるを以て目的とする」と述べている。そして、 「生徒をして自らなさしめんと欲する」と、生徒が自分の力で学び、自らを律して成長するようにすることが教育の目的であると述べている。この時代ではしつけや教えることが多い中、生徒が自ら学ぶという姿勢は、特筆すべきことであろう。また、澤柳政太郎が文部次官で活躍するのが一九〇六(明治三九)年、及川平治の「分団式動的教育論」が一九〇七(明治四〇)年、木下竹次が奈良女子高等師範学校附属小学校の自由教育が一九一九(大正八)年と考えると、自由教育が流行する前に「自由独立独行」を主張している点が、「大いにその存在を認められる」ことになり、独逸学協会中学校の大村仁太郎に招かれる一因とも考えられる。 一方で、冒頭に海外の知識を入れることは、明治の文章の特徴であり、時代に即した記述をしているが、「自由独立独行」は守屋荒美雄の造語ではなく、フリードリヒ・フォン・シラー原著で、一八八七(明治二〇)年に葦田束雄翻訳の『字血句涙 回天之弦声』に「不覊自由独立独行」の引用とも考えられる。当時はドイツ翻訳小説が流行して十年後であるが、翻訳調の文体を倣いつつ、教育思潮を折り込むところに、学究的な論文ではなく、守屋荒美雄の教場の授業のような文章であるところに、多くの人の関心を引いたと思われる(6)。 この「生徒ノ自治思想養成法」が「大いにその存在を認められ」る最初の機会であり、今後の守屋荒美雄の著作者、会社経営者、学校経営者としての業績の転換期として捉えるられる。守屋荒美雄の教育への熱意とは、生徒が自ら成長していく自立を志向した教育観によるもので、その背景としては守屋荒美雄が自らの向上心・勉学への意欲から生じたものであるとすれば、その後の学校経営の方針につながるものであり、帝国教育学園構想の基礎がすでに「生徒ノ自治思想養成法」に現れているといえよう。 注 (1)守屋荒美雄の学校経営には出資と設立と名誉職に分けられる。関東商業学校、帝国教育学園以外には、主に次の学校に関わっている。 武蔵野音楽学校が各種学校から専門学校に申請したときに三万五千円を出資している。福井直秋は次のように一九三一(昭和六)年頃のことを懐古している。「さて専門学校にするためには一〇万円の基本金が要る。その調達を帝国書院の社長守屋荒美雄氏に依頼したら内三万五千円は何とかしよう。また三万五千円を守屋が出すなら、俺も一肌ぬごうという刀江書院の社長尾高豊作氏の話で、あと三万円は完成年度までにできればよい。(中略) そして残りの三万円は完成年度に元古河電工の専務荻野元太郎氏に頼んで漸く調達することができた。 思えば当時の一〇万円といえば仲々容易ならぬ大金ではあった。(中略) 今でも尚当時の一〇万円の工面はわたくしの身にしみてこたえている。」(リーフレット『三十年の歩み』武蔵野音楽大学) 市川中学校の設立には五万円を出資している。亀川徳一は次のように一九三六(昭和一一)年頃のことを懐古している。「財団法人を設立するには現金五万円という基本金を積まねばならず、早速守屋先生に相談すると、「ヨシ僕が出してやる。行り給え!」との事だ。そこで私が創立者となって申請したのであるが、なかなか県庁で手間どって容易にイエスと謂って呉れぬ。守屋先生は然らば僕が行ってやるとて、態々千葉県庁迄も出掛けて下さったのである。県庁でも守屋さんが御行りになるのならと忽ち文部省に書類を申達して呉れたのであるが、文部当局からも案外早く認可を得ることが出来た次第である。」(「守屋先生を偲ぶ」『守屋荒美雄伝』四三二頁) 法政中学校の設立には中心となって動いたことが『法政大学百年史』に書かれている。「中等部の誕生は守屋荒美雄理事(明治三四年和仏法律学校卒)の構想によるところが大きい。守屋理事は苦学力行の人であり、帝国書院を経営するかたわら、その生涯において一九八種の中等学校用教科書を著作し、中等教育に並々ならぬ熱情を抱いていた。」(『法政大学百年史』八五五頁)。また、『法政一中高五〇年史』には次のように書かれている。「商業を含め、昼間中等部設立について、企画部で立案される前後から中心になって文字通り東奔西走したのは、企画担当理事守屋荒美雄であった。資金問題もさることならが(中略)守屋理事がさらに大きな苦心を払ったのは短期間に必要数の教員を集めることであった。大学予科・学部教員の兼務がまず考えられるところではあったが、それは必ずしも簡単ではなかった。いきおい、教科書出版会社を経営する守屋の人脈に大きく依存せざるをえない。」(法政大学第一中学・高等学校『法政一中高五〇年史』四七頁) (2)「荒美雄」の名について、『復刻版『守屋荒美雄伝』(帝国書院、二〇一七(平成二九)の附録「インタビュー 父・守屋荒美雄の思い出」で、守屋美雄(守屋荒美雄の七男)は「「最高の知恵者」という意味を持って「スサビオ」だというふうになったんじゃないか」と述べていて、「荒美」については触れていない。 なお、本名である「荒三」は、『守屋荒美雄伝』に「氏の令姪に荒三なる名を与へた。令姪荒三氏は後に外松家を嗣ぎ、外松荒三と称し、現に神戸市にて貿易商を営んでをる。」とあり、「現に神戸市にて貿易業に従事し、岡山県輸出花莚連合会委員長、日本花莚輸出協会理事其の他十指に余る名誉職を兼ねて活躍中である。」と記述されている。外松家とは外松謙のことであり、外松謙の長女「ちよ」が守屋荒美雄先生に嫁いだ縁で、守屋荒美雄の親族を外松家に嗣がせることになり、その際に、「荒三」に改名させたことになる。この外松荒三の生年・没年は不明であるが、想定される年齢や倉敷に住んでいたことなどを総合して判断すると、守屋荒美雄の姉「伎左」の子であると思われる。 守屋荒美雄は親族を大切にしていて、帝国書院、帝国第一高等女学校の関係者には親族によっている。 帝国書院が株式会社として設立した時の役員との関係は次の通り。 ○取締役社長 増田啓策 守屋荒美雄の長女「繁子」の夫 ○取締役 外松荒三 守屋荒美雄の姪、一番目の妻「外松ちよ」の実家を嗣いだ親族(義兄弟) 吉川近一 守屋荒美雄の妹「以屋」の夫 (吉川駒次郎 長男) 押田治郎作 守屋荒美雄の二番目の妻「押田マツ」の父 古橋庄兵衛 守屋荒美雄の一番目の妻「外松ちよ」の妹「外松いそ」の夫 ○監査役 守屋荒美雄 帝国第一高等女学校が設立した時の役員との関係は次の通り。 ○理事長 守屋美賀雄 守屋荒美雄の次男 ○理事 増田啓策 守屋荒美雄の長女「繁子」の夫 守屋美智雄 守屋荒美雄の三男 増田繁子 守屋荒美雄の長女 守屋紀美雄 守屋荒美雄の四男 守屋美都雄 守屋荒美雄の五男 ○監事 高橋寿太郎 守屋美賀雄の妻「弥寿子」の父 藤田仁太郎 守屋美智雄の妻「綾子」の父 (3)『守屋荒美雄伝』には江原弥恵治が「野口保興著の数学の理論及実際の如き数百頁なるを悉く筆写して使用せり」(「守屋君を語る」四〇頁)とある。この野口保興の本は『算数学:理論応用上巻』 (雙々館、明治二四年一月)と『算数学:理論応用下巻』(雙々館、明治二四年六月)で、それぞれ二〇七頁と二二一頁である。また、三宅淳七郎は「特に数学に興味を有し、地方の数学家につき代数の研究を共に学びしことあり」(「守屋荒美雄氏の略歴概要」六三頁)とある。地理学者の山上万次郎は「守屋君は数学が好きで、特に代数が得意であった。君の優越性は果たして令嗣君に伝わった。」(「憶い出すまま」一一四頁)と述べている。 (4)『法政大学校友名鑑』(法政大学校友名鑑刊行会、一九四一(昭和一六)には「明治三四年七月、和仏法律学校法律科卒業、守屋荒美雄(帝国書院創業者、関東第一高等学校・吉祥女子中学校・高等学校創立者)」と卒業生として記載されている。『法政大学新聞』第四六号(一九三四(昭和九)年九月)では、「和仏法律学校時代出身の清廉潔白の士で、以来本学の為に尽くし、刻苦研鑽し、現在帝国書院社長の任にあり努力家である。」と評されている。武蔵野村に設置した日本大学の学生のための寮を増築して、法政大学の学生の寮を提供し、遺言に従い、没後に法政大学に金一万円を寄付しているので、勉学の熱意は、法政大学との縁として長く続いたのであった。 (5)主たる著書は次の通り。教育関係の著書に限り調べた。 守屋荒美雄編『国際地理学 上巻』(高等成師学会、一九〇二(明治三五))(※下巻は未発行) 守屋荒美雄編『法令上より観察したる小学校教員』(六盟館、一九〇七(明治四〇)) 守屋荒美雄『動的世界大地理』(六盟館、一九一四(大正三)) 守屋荒美雄『人生地理』(帝国書院、一九三五(昭和一〇)) (6)『守屋荒美雄伝』には守屋荒美雄の授業の様子が語られている。 伊藤鐵哉「先生の教授振りは極めて指導的で生徒をして自ら発明するように仕向けられた。そして時々激励の言葉を以て生徒の気分を引立てるように務められた。こういう点が生徒の人気を集められた」(「伊藤……頼みに行け」一一六頁) 上田春治郎「地理なんてものは、歴史と違って無味乾燥で、得て生徒が倦み厭き易く、従って興味を覚えず、試験点数が悪くなり勝ちで、教える先生も困るものだが、守屋先生は、ソコを能く呑み込んで居られたのであろう! 実に面白く、我々餓鬼共を笑わせ乍ら、巧みに教授の要領をつかんで行かれた。(中略)面白く、独りでに少年の頭に入る様、滑稽諧謔交りに、ドット笑わせ乍ら記憶させられたのだ。(中略)時に無礼な言動があったりすると、ムキになって怒らずに、著名政治家などの立志受難修養時代の実話などを語りて「君方等ソウ言うが、僕も今に大政治家に成るかも知れんぞ」などと哄笑されるたりした。」(「守屋先生を追憶す」一一九頁) 片岡 環「私が先生にはじめて接したのは確か大正九年の事であったと思う。海城中学校の五年生の時である。その頃先生は私達に地理を教えられていた。そのお顔は常ににこにことしてまるで恵美寿様のようであった。ぽつりぽつりとその話し出される事はよく要を掴んで居て、決して無駄はなかった。又部屋を歩かれたり、手真似をされたり、やさしい笑いを投げかけられたり、その教授法は今でもはっきりと私の心のなかに生きている。先生は教師としてはかたやぶりの教師であられたように思う。」(「先生を憶ふ」一二七頁) 川島菱園「私が初めて守屋先生を知ったのは、今より四十年の昔、明治三十二年四月獨逸協会学校に入学した時でありました。先生は地理歴史科の担任で、生徒に対して教授すること誠に懇切、一つ一つの事物を噛んでふくめるように、生徒の脳裏に徹底させねば止まぬという教授法でありました。地理学に至っては殊に造詣深く、其の該博なる知識を以て諄々として説明すること、慈父の愛児に対する如くで、又非常に生徒の信頼が厚かったのであります。」(「守屋先生と私」一三六頁) 宇野木忠「先生は講義をなさるにも教科書そのもののみに拘泥せずに雑音を介在して時々生徒を笑わすので、他の学科と違って面白く楽しい間に記憶することが出来ました。(中略)温情籠もれる態度には吾々生徒は本当に先生の徳を慕っていました。」(「地理の先生」二一四頁) 謝辞 本稿執筆にあたり、株式会社帝国書院代表取締役社長 佐藤清 様には多くをご教示いただきました。ここに感謝の意を表します。 二〇二四年(令和六年)五月十五日吉祥女子中学・高等学校「研究誌」第56号