1997.9.1
黒川 孝広
戦争体験から、次の世代にはより豊に、つらい体験をしないで幸せになって欲しいという考えから、子供を勝手気ままに育ててきた。また、子供の数が少ないことと、両親から独立した核家族化が社会全体に浸透しつつあることから、子離れができなくなってきた親か増えてきた。これにより、子はいつまでたっても「子」としての意識が残ってしまい、親はいつまでたっても、子を「子」としか認識しなくなってくる。そして、子は独立心や自分の個性とは何かを積極的に探ることをしなくなる。なぜなら、親はいつまでたっても子の面倒を見てしまうからである。親が子を「大人」として育成するのではなく、「家族の一員」としての「子」として育成しようとする限り、子は「大人」になりきれない。
また、地域などの世代を越えた交流ができないために、子は「大人」の世界をかいま見ることができなくなってきている。近所との交流や昔はどこにでもいた口うるさい年寄りはいなくなってきた。自分に対する攻撃には過剰なまでに反応し、自分を「ほめて」認めてくれる人の評価のみを信じる傾向が出てきた。現在の子供たちが、優しさを中心として、厳しさよりも、「甘え」に近い優しさを求めているのも当然の成り行きなのである。自己との闘いの歴史をもつことなく全てが自然のように流されて、教育を受けているからである。
この結果、家庭教育が新しい時代を迎えて、かえって親が子供を育てることに対しての自信を喪失してしまい、学力のみならず、家庭教育の範疇にあるものまでが学校で教えられるものとして認識されてきている。親を教育することも必要な時代において、これからは、家庭教育と今までの学校教育が行ってきた学習教育とが一致させる必要性がでてきている。
中央教育審議会での「生きる力」とは、次のように説明されている。「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を「生きる力」と称する」
これらを実践するには、学力観の基本認識、言い換えれば再構築が必要である。戦後のアメリカ経験主義から学んだ単元学習が経験や問題解決学習を重視したにもかかわらず、それが日本に根付かなかったのは、目に見える学力として評価できなかったからである。国語科で言えば、文字を書く力やテストの選択肢を選ぶ力が不足していたということを「基礎力の低下」として受け取り、自分の言いたいことをスピーチする能力や、人の話を理解する能力などの音声言語の分野の指導と問題解決学習が実施されてこなかった経緯がある。それが今も繰り返されている現状をみると、現在なにかとスローガンのように叫ばれている「新しい学力観」とは、戦後すぐに、あるいは明治30年来からつながっている教育の本道なのであり、「不易」の部分であるところの「個性」の伸長にほかならない。しかし、現在においてはすべて入試制度や試験による序列によって成績や学力が決められてしまっているのでは、いくら、問題解決能力が充実していても、入試には対応できず、評価は低くなってしまう。学力観を換えて、表現能力や問題解決能力を評価として取り入れることができるように考えならればならない
が、表現能力とは本来評価しにくいものなのである。
人が人を評価すること自体、難しいことであり、それは、いくら企業が「いい人材が欲しい」と嘆いていても、人事担当者がいい人材を集める、あるいは、入社試験で見抜くことは、かなり難しいことからもいえる。「いい人材がいない」と嘆き、期待しない人を採用したが、その人がその後に期待以上の活躍をすることはよく見かけられる。これは、その人の潜在的な素質を見抜くことができなかったことを示す。トヨタの前社長は500人の新入社員がいれは、10人が会社に貢献できるような逸材であればよい、と言い切っている。これは、人材不足を説明しているのではなく、人材を見抜く、つまり、その人を評価する力が人間には元来不足していることを意味している。ならば、能力評価を学科評価にしていまっている現在の日本の学校制度自体、問題解決能力を評価できるはずがないのである。本来、評価をするという行為は、全体の中のレベルを査定するものではなくて、児童・生徒のよく努力した点を認めて、それをほめ、あるいは、努力しない点をしかりながら、その児童・生徒なりの努力成果をきちんと客観的に判断し、そのよさを指摘しながら、児童・生徒の今後の行動を自分なりに考
えさせ、それを支援することにある。児童・生徒の集団の中の位置を査定することではない。そのようなことが必要なのに対して、評価するという行為は、教師にとっては必要不可欠であり、それを判断基準は人により異なるが、また判断する対象が常に流動的な人間なのであるから、一定の方法で決められるものではない。
知識を教えることを追究すると、文部省検定の教科書に準拠した知識となり、国家の欲している極めて従順な公僕としての人間が育成されていく。これと同じ事が教師の教育としても存在している。教師の教育において、指導熱心にするあまりに、知識中心的な教員像が確立されてしまい、自由奔放な自らの個性を認識し、行動力のある、いわば精神的に「根」をしっかり持った教員は育成できないのである。教える事を追究するあまりに育成することの、本人の個性の伸長ができなくなっているのが現状である。それに加え、1.で示した通り、精神年齢退行現象が見られている現在では、取り残してしまった幼少体験を取り戻すがごとき活動としての青年期の葛藤が生じて、それがかえって本人の大人としての責任感の育成を阻止していまう傾向にある。
教師自身の教育として、盛んに初任者研修などが行われる。確かに教師に不適応の者は多く、毎年教師をやめる人は多い。なぜ、このようになるかというと、教師という技術職において、知識があればよいという一般職の意識で参加しているからである。
教師の教育を参加にすればするほど、教師の個性が画一化されて来る。それによって弊害も生じるのである。社会をみれば、いろいろな人が存在し、それを受け入れるだけの社会的な寛容性が必要である。しかし、教師が画一的な指導として、おなじような価値観に統一されると、閉鎖的な社会の模式となってしまう。「変」と呼ばれるような個性の持った教師や問題意識を常にもって行動的な教師やらが消えていくのである。
知識人とて、これからの教師のあり方を考えてみれば、体制に批判的になるのは当然なのである。組織にいること自体が組織に対してチェック機能を果たす役割が必要となる。実際には行う者の主体的な倫理観によって運営されるのであるが、実質は一部の情の世界に陥ることによって、情にながされてしまう傾向にある。これらの事を鑑みれば、体制に対して批評を加え、チェックするこ自体が正当な庶民的な行為であるといえる。何もかも反対するのではなくて、実際に行われている行為自体が果たして正しいものかを判断することは必要である。
今までの生活をするなら、何も新しいことをする必要はない。しかし、新しいことは政治において常に行われる。それは、何十年も前の計画であろうと、為政者から見れば、過去に決定した者の責任であり、それを覆す行為が違反するかのごとくにとらえられ、現段階では時代の面からも即しないことも行われる節がある。それをチェックするのは、知識人としての率先的な行為とともに、そのあたりに住んでいる町の口うるさい年寄りと同じく、歴史という文化に裏打ちされた判断力、分析力に依ることである。
すでに行政が行うことにチェックすること自体は、反体制の意識ではなく、庶民としての政治参加意識を喚起することにならない。一般庶民の政治参加意識が低くなるのは、自分から責任を回避する傾向にある日本の現状と、先にふれた「大人」とての責任意識の欠如にほかならない。
思えば、家庭での親の役割は教育の中の大きな地位を示してきた。いくら教師が育てようとしても、親の意識は教師の意識よりも強い。親と教師の連携が教職員組合から提起されて久しい。しかし、その成果はなかなか実らない。その理由は教師は子の基本的な生活習慣を親の範疇とし、親は学力以外の生活習慣も教師の範疇とする、お互いが極度に依存する関係によって成立しているからである。この関係を打破するには、親と教師の協力なくしては不可能であるが、親自体が子育てに自身をなくしつつある現在では、教師が家庭教育についても指導し、補佐する立場になるのは当然といえる。江戸時代なら医者がすべての家庭の様子をしっていて、病理のみならず、カウンセラーや仲人として成立していたのは信頼関係がしっかりしていたからであった。その信頼関係を持ち、子の学力とは何かを探り、触れ合いを通しながら個性を伸長することが必要なのである。
よって、教師に求められるものは多くの人との触れ合いを通して、その人のよさがどこにあって、どのような行為、表現がその人に向いているかを判断することである。このことができなければ、いくら知識を所持していても、その知識が教育という行為に連結することなく、知識の伝達で終わってしまうのである。教育の目的が社会的に問題を解決でき、他者と自己との関係を把握し、自分の育った場所や人々との文化を認識し、継承することをはぐくむことであるとすれば、個性を持った教師が登場しないと、極めて狭い個性をもった社会の縮図としての学校が成立してしまい、いろいろな個性をもった人がいる社会の縮図としての社会人育成、文化の継承を目的とした教育は成立できない。