非言語の取り扱いの意義と方法


1997.12.3
黒川 孝広


1.創造力・思考力・表現力育成の観点

 中教審や教課審でも、創造力育成については審議されている。
  「個性的な人材や創造的な人材を育成することは、我が国が活力ある社会として発展していく上で不可欠」(中教審第二次答申)
  「これからは内容的には真に大切な基礎・基本に絞って、この基礎的に学んだものをいかに応用して、思考力とか論理力とか創造力とか、身につけさせるかということがこれから大きな課題であると考えます。」(教課審  第八回議事録)
 この他、「創造力や論理力をもっと育成すべきである」という意見は近年盛んに出されている。自由化・個性化・多様化の時代を迎えているのに、近年の画一的な教育内容により、創造力を育成してこなかったことが原因であり、「情報化」「国際化」を志向し、世界に通用する表現力をもった人間が必要とされているからである。今多くの意見で求められているのは「創造力を持つ」「自分の意見を的確に表現できる」人材である。そこで、国語科教育において創造力・思考力・表現力育成の観点を考える。

1、創造力を育成するには、様々なパターンの思考をすることが大切である。その上で、多くの考え方を表現することが必要となる。
2、思考力をつけるには取り入れた情報を整理し、必要なものを取り入れて、無駄なものを捨てる作業し、自分の考えを再構築することが必要である。
3、表現力をつけるには、表現の機会を増やすことである。そして、さまざまな場に応じたさまざまな内容の表現をすることである。自分の表現を他者が確認し質問や意見などにより自分の表現の的確さを理解し、よりよい表現をすることが必要である。

 これら三点についてまず、脳の働きと関連して考えることができる。脳のはたらきの特徴を左脳と右脳で分けると、一般的には次のように分類される。

左脳 記憶、言語、計算、系列化、分類、論理、順序づけ、分析
右脳 直感、態度、情動、音楽、視覚的空間的関係、総合的思考

 右脳が概念的、知覚的行為を中心とし、情報を感覚により認識し、分析などする領域とされている。左脳は、抽象的・形式的行為を中心とし、抽象的な思考と論理をすることができる。つまり、右脳が創造力の源であり、そして、左脳の知識経験と右脳のバランスがとれて、総合的な創造力が発揮できるとされている。国語科が言語を扱い、論理的な理解と表現のみを考えるのなら、左脳のみの活動であり、創造力育成は難しい。創造力は今までの知識経験を、新しく組み合わせて今までに記憶していないことを考えることであるので、視覚的・空間的な思考も伴うよう、授業での工夫が必要である。

2.三つの提案

 創造力育成の観点から、私は次の三点を提案したい。

1 クイズ的発想からパズル的発想へ考え方を変えること
2 非言語を扱うことも考えた表現の導入も検討すること
3 理解し合う、表現し合う言語行動を導入すること

 を提案したい。

2−1 クイズ的発想からパズル的発想へ考え方を変えること

 1の「クイズ的発想からパズル的発想へ考え方を変えること」の理由は、クイズは答えが一つに限定されるからである。クイズ自体にはある程度思考力を育成する効果はあるが、特に知識的問題は厳密に正解が一つになり、他の答え、つまり他の考えは入る余地がない。しかし、パズルは答えが一つまたは複数あり、答えを導く過程も一つ以上の場合がある。パズル的発想から言えば、すでにある答えを求めるのではなく、答えを新たに作り出すことができ、思考力や創造力の育成となりうる。実際に、市販の言語パズルなどは創造力や発想力を育成するにはよい方法がある。次の問題を高校二年生の授業で取り扱ったが、考えが複数出た。

問 次の五つのうち、文字としてほかの四つともっともちがうのはどれか。
     A Z F N H 
生徒の答1 「A」 Aは母音、他は子音とし用いられる。
生徒の答2 「Z」 Zは発音で「ゼット」で、他はすべて、「エ」から発音される。
生徒の答3 「A」 Aには閉ざされた空間があり、他にはない。
生徒の答4 「F」 他の文字は線対称、または点対称になる。

 引用した本(*10)では、「A」を正解とし、その根拠としてAが母音であるからとしていた。しかし、実際では学習者は、文字を音韻と形から検討している。もちろん、この他にも考えることはできようが、一つの方向ではなく、多方面からの検討をするという意味では、思考力育成に有効である。
 この場合、図形的な観点から答えを導くことで、国語科の範囲ではないとの意見も出よう。しかし、右脳の活動を考えれば、国語科の範囲として考えられるのである。それは、映像や図、グラフなど非言語表現を扱うことの利点と欠点によるからである。

2−2 非言語を扱うことも考えた表現の導入も検討すること

 2の「非言語を扱うことも考えた表現の導入も検討すること」であるが、非言語表現を扱うことは、国語科教育でも実際に行われてきた。例えば、生活作文では自分の行動やしぐさ、風景や天候、感覚や感情などの日常の非言語行動を言語に定着させる行為である。写真や映画、ビデオ、絵、彫刻などの平面、立体の静止画、動画などを扱うことは、美術科や音楽科、その他の科目に属することであるから、国語科で取り扱うべきではないという意見もあるが、これらの非言語物を文字言語や音声言語で表現する行為は、非言語物の言語化であり、学習者の認識や感受性によりさまざまな言語表現することになり、どのように表現するかを試行錯誤し、そして、実際に文字言語や音声言語にすることにより、自分の考えを再認識して自分の思考を整理し、もう一度表現を考えることになる。この結果、発想力や思考力が育成されていく。絵画や音楽を鑑賞し、それを文字言語や音声言語で表現する行為は、表現者の自由な考え方や感受性を表現する行為であり、考えを収束することなく、自由に考え方や表現が可能なのである。映画や漫画は文字言語や音声言語も含まれているものもあり、映像と言語とを合わ せて思考することができる媒体であるので、今後とも導入の可能性が高いものである。
 また、この非言語を言語化するのと逆の方法も行われている。俳句や短歌の情景を絵画化することや、物語の部分の情景を絵画化して示したりすることなどである。ただ、文学教材などの場面の写真や古典での有職故実の実物や写真、映像などの視聴覚教材を使う場合には、利点のみならず欠点もある。今の社会状況として見ることのできないもの、想像ができないものについては映像として示すことでより学習者の想像力や理解を深めることになるが、学習者が言語から想像しやすいものは、有効とは言えない。太宰治の『富岳百景』を例に出すと、「富士山」は日本の中でも多くの人がその形を知っていて、想像が簡単である。ならば、あえて、写真を提示する必要はない。むしろ、言葉でその様子を想像することが可能である。逆に形を知らない場合はどうなるか。三好達治の『甃のうへ』では、「風鐸」は容易に見ることはない。そこで、いくら言葉から想像しても大まかな外形でしたかとらえられない。この場合は映像を見ることで理解につながる。このように想像ができにくいものについては、映像や実物を見せることはできるが、注意するのは、なるべく普遍的な映像であって、特に凝った装飾 性の高いものを用いるべきではないことである。あくまでも、学習者の理解の一助としての映像であり、映像を理解することが目的ではないからである。
 非言語表現を扱う場合の注意点は、一に非言語表現を認識した後の学習者の表現は言語によって行われるべき点
であり、また、言語表現を認識した後の学習者の表現は非言語でも言語でも行われる点を確認することである。
│ 理 解 から 表 現 │
│ 言 語 → 言 語 │
│ 非言語 → 言 語 │
│ 言 語 → 非言語 │
このことは、このように分類できる。
二に理解や表現に有効な非言語表現を扱うことである。三に非言語表現を例えば、ビデオなど一時間の授業全てを使ってみせることを頻繁にするのではなく、学習者の言語行動の時間を確保できる適度な量にすることである。
 演劇などで、非言語のもの、例えば自分の感情などを表現するのに、身体部位により表現することは、非言語を非言語で表現するので、国語科教育の範囲に入らないであろう。言語による脚本を身体部位により表現するならば、脚本を理解する行為を伴うのであり、国語科の範囲に入るのである。
 また、現在において言語に非言語化を取り入れている傾向にある。実社会での文書などが図やグラフを多用したビジュアルなものになっていることも挙げられる。実社会では、企画書や報告書などのビジネス文書や公文書、私的な文書も簡潔なものになっている。特に企業内においてはプレゼンテーションに代表されるように、文章のみならずグラフや表が有効に使用されている。最近ではパソコンやワープロの普及により図やグラフ、表は簡単に作成できるようになってきた。企業などでは、プレゼンテーションという概念が重んじられる。以前は詳細なレポートがよい報告であるとされていたが、今は簡単にわかりやすく、そして、訴求力のあるものが求められている。そのためには、図やグラフなどを使いながら、自分で言語で表現したい、伝達したい内容を確実に伝えることが必要になってくる。また、漫画も一つの非言語と言語の融合体であると言えるのである。
 これらから、純粋に文字言語や音声言語だけではなく記号言語を利用することも、表現の一助になる。ただし、全てこのような図やグラフを導入すればよいということではない。ある表現では、図やグラフなどが効果的であり、ある表現では、文字言語・音声言語だけで十分な場合もある。その中の効果的利用手段を選び、効果的な、なおかつ個性的な表現がを模索していくことで、その時の自分なりの表現ができるのである。特に、文章での相手を意識した効果的に表現が、近年、「テクニカルライティング」と称して、企業内研修や大学での講座でも導入され効果を上げている。
 それを踏まえて、言語・非言語の教材についても検討していく必要がある。自由化・個性化・多様化の現在にあっては、国語科教育の範囲を広く捉えていくことがこれからの社会では必要になるからである。国語科の目標の一つに「言語文化に対する関心を深める」ことがあることからも、教材は狭い範囲の時代のみではなく、広く様々な時代から集めて、取り扱うべきである。近年、森鴎外の『舞姫』が文体・内容ともに難しいからという理由で教材として不適切である、という意見が出ている。しかし、言語文化の関心を深めて、文化を継承していくには、多くの時代の作品を読むことが必要である。『舞姫』ならば全部を読む必要もなく、一部分を扱うことでもよく、一度読んでしっかりと精読することこともあるが、感想を話し合うことでもよいのである。「読む」という言語行動ができ、多くの意見を知り、意見を述べていくことで、「読む」という行為自体から時代と文化を感じるのことができるのである。多くの教科書では、明治初期の作品が掲載されていない。例えば二葉亭四迷の『浮雲』や坪内逍遙の『当世書生気質』の文体は江戸期の名残がある特徴的な作品であり、初期の小説とはどの ようなものかを知ることもできる。文章の差異を知ることは文章の特徴を知ることになる。絵画で例えれば、印象派の絵画だけを見ても、その独自性は充分には理解できない。その直前や直後の絵画の傾向を見ることで、印象派の独自性が理解できるのである。文化について同じことが言える。現代の文化を現代の視点から捉えることもある程度はできるが、現代の文化がいつの時代から継承されているのかかを認識することにより、現代の文化、ひいては、学習者自身が身に付いてきた文化がどのような性質のものであり、いつの時代から受け継がれてきたのかを理解することができるのである。
 現代文教科書の多くは、新教材の発掘を宣伝文句として掲げている。しかし、言語文化の関心を高めて、言語感覚を磨いていくには、自分たちが身に付けてきた文化の経緯を理解する必要があり、その上に自分が成り立っているのであるから、広く時代を越えた教材を集めるべきである。時としては簡単に時としてはじっくりと、言語作品を「読む」という行為が必要である。様々な時代の様々な表現、考え方を受け入れ、それを認識しながら、自らの考え方を育成していくことになる。広く教材の範囲を考えたい。
 この時に注意しなければいけないのが、教材の範囲をいくら広くしても、偏った精読主義による授業法のままでは、国語科教育は変わらないことである。精読自体は必要なものであるが、それが偏ることにより、学習者の自由な読みを表現することを妨げてしまう。読みについては、さまざまな方法を提示すべきである。例えば、文体から読み取ることが楽しいという学習者もいる。それは、読み取り方をしらなければ本人にも気が付かないのであり、学習者に多くの読み方を提示は必要である。だが、その読み方を強要することは、多様な理解の方法を身に付けることは不可能となる。感動を与えるのみが文章を「読む」本質ではなくなってきている。これは、個性化の流れでは当然である。全員が同じように感動することはほとんどない。批判したり、同意したり、何も感じなかったりなどさまざまに受け取られるのでありから、読み取りは多種多様である。このことを学習者が理解する一番の方法は、教室で学習者同士の読みを披露することである。

2−3 理解し合う、表現し合う言語行動を導入すること

 3の「理解し合う、表現し合う言語行動を導入すること」については、文章読解した上での学習者に自由に発言、あるいは、出来事や物を見て自由に思ったことを発言し、お互いに話し合う言語行動の機会を与えることが必要である。一時間の授業を全て話し合いにすることでなくても、わずかな時間でも話し合いを持つことが必要である。表現行動で必要なのは、表現する機会をたくさん与えることである。その時に注意しなければならないのは、指導者が「正しい」とか「誤り」という観点から学習者の表現したものを判断することである。学習者から見れば「未知」であることを「誤り」とすることで、かえって、表現されなくなる。自分の意見に自信を持って表現できる学習者は少ない。むしろ、質問や意見を受けることで多少なりともショックを受けることがある。そういう時のフォローを大切にし、表現することを恐がり、また、嫌になることを避けなければならない。
 「書く」「話す」といった表現活動において、「話し合い」と同じく、「書き合い」ということを重要視したい。「書く」「話す」という行為自体は、一方的な表現である。しかし、書いた内容について、書いてコメントする、あるいは、話してコメントすることにより、書いた本人の表現がどのように他者、あるいは自分で理解されたかフィードバックできのである。手紙は、書いたものを書いて返事を出す。電話は話したものを話して返事をする。話したものを書いて返事をしてもよく、書いたものを話しで返事をしてもよい。また、映像で表現されたものを音声言語や文字言語で返事を出してもよい。このことを延長して考えれは国語科の基本にたどりつく。つまり、「理解し合い」「表現し合い」という言語行動を通して思考力と表現力を養うのである。一方的な理解、表現もあるが、それだけでなく、お互いが理解し、お互いが表現することができるのも、教室という集団の一つの利点である。

3 「読む・聞く・書く・話す」の言語行動を通した創造力・思考力・表現力を育成

 現在の自由化・個性化・多様化の方向へと進む社会にあっての国語科教育の観点は、不足している「読む・聞く・書く・話す」の言語行動を通した創造力・思考力・表現力を育成することを持つことが必要である。しかし、そこには当然、文学的文章や説明的文章の理解や語彙・漢字指導も入り、特別な技能を必要とする指導方法ではないはずである。そして、基本の言語活動を通した国語科教育を目指すには、結果である能力のみならず、途中過程の言語行動をも重視した指導法を今までの報告から取り入れ、そして、新たに国語科教育の範囲を広く考え、変革または創り出すことが必要である。

以上

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