表現不足が人間疎外を生む

「子ども文化フォーラム」3号(明治図書)掲載の要約

1999.10.16公開
黒川 孝広

[注]明治図書の契約により、本文は掲載できませんので、文意を直した要約を載せます。これは、文章の要約ではなく、一部文意を変えていますので、原文とは若干ニュアンスが違うことがあります。
「表」と「裏」から人生を学ぶ

 「裏」があるから、社会をさまざまな視点からながめることができ、自分の処し方を学ぶことができる。そのチャンスとして子どもにとっての「悪」がある。子ども同士の「秘密」程度のものから、いたずらや破壊などの行動まである。子どもにとっての「悪」が社会にとっての「悪」と共通であることに気付き、社会を知るのである。
 そして、この「悪」は人生に影響を及ぼす。大人になってからの幼年時代の思い出は「裏」のことが多く、さまざまな抜け道を「裏」で体験するのである。そして、実際の社会を知る。社会での身の処し方を学ぶのが子どもにとっての「悪」という場である。

コミュニケーションの質の変化

 現在、高校二年の「国語表現」の授業で「名文悪文ノート」を実施している。これは、日常の話しことばや書きことばから気になるものを抜き出し、それについて感想や意見を書くノートである。名文のみならず、悪文でも気になるものを書き留めておくのである。そして、感想や意見を書くことで、自分はどう考えたかを記録していく。書くことは自分自身を知ることである。自分を知ることは、自分を表現するときに必要なのである。自らを表現するための手段とし、自分を表現することで、自分がどういう存在であるかを認識するために行っている。その中から次の文に出会った。

「自分のしていることの正当化。罪意識の排除。これを完璧に行えば、人間にとって犯罪など容易にできるものだ。そしてそれを実際に行ってしまう少年少女がいる。自分が楽しむためなのか、自分の存在を人にアピールしたいためなのか、あるいはただの遊びとしてなのか・・・・理由は分からないがとにかく彼らは、いつしかナイフで人を傷つけることを学びはじめた。ともすると殺すことも。そんな彼らに罪意識はない。なぜなら自分のしていることを正当化し、罪意識を排除してしまったのだから。」

 子どもたちは、自分のしていることを正当化し、罪意識を排除する。自分を防衛し、自分の殼を強くしようとする。それは、他者から自分がどう評価されるか怖いからである。その結果、他者の意見を取り入れることを拒否するようになる。その結果、コミュニケーションの質が変化する。
 コミュニケーションの総体時間はいくつかの資料を見てもそれほど変化はしていない。コミュニケーションの総体時間が変化していないのに、子どもの様子が変わっているように感じるのは、コミュニケーションの質が変化しているからである。その質の変化とは内容であり、その内容の変化をもたらしたのが、コミュニケーション意識である。お互いの心持ちの深い所には立ち入らないようにしているのである。その結果、自分を中心とした尺度で物事を見てしまうのである。

学校での表現活動不足

 学校では子どもの個性や能力を伸ばすことを大義名分とするが、よい就職先に生徒を送ったり、進学実績を上げることも必要とされている。子どもたちを自由に、個性的に学習できる環境を作り、指導していくのが学校であるはずなのであるが、実際には経済上の目的が優先される。その結果として、極端なまでの知識伝達型であった指導方法が取り入れられてしまう。
 このような子どもの表現活動の機会が失われつつある現状では、子どもは表現する方法を知らず、他者とのコミュニケーションをより浅いものにしてしまう。昔とは社会状况が大きく変化し、子どもが変化しているから今まで以上に表現活動重視の授業展開が必要となるのである。
 今の子どもに必要なのはお互いの表現を理解し、自分の表現を受け入れてくれるかどうかの安心と自信を身に付けることである。安心感がないと、表現をためらい、表現しなくなり、表現する機会を減らし、理解し、表現し合うというコミュニケーションの質を浅くしてしまう。
 表現活動で大切なことは、双方向で理解し、表現し合うことである。他人の個性を認め、その上で他人と関ることで、自分という存在を確立させることが大切なのである。
 「良い子」「悪い子」「普通の子」の評価自体が大人の作り上げた幻想であり、大人にとって都合のよい尺度で測っているに過ぎない。その評価にあぶなさが出るのは、「あぶない大人」が多いことの証明でもある。


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