鴛鴦呼蝉庵日乗

2001.8.31 ゼミ合宿−伊豆川奈
   今年のゼミ合宿は、伊豆川奈にあるセミナーハウスでした。このセミナーハウスは、今年の春にオープンしたばかりなので、まだそう知られていないため、抽選も通ったものと思われます。今回は幹事が前田さんで、抽選から買い出しからいろいろお世話になりました。その甲斐あって川奈で合宿ができました。これまで、本庄、追分とセミナーハウスを利用してきまして、今回が3回目。食事もいままでよりも充実していて、設備もかなり充実していました。何より驚いたのは、各客室に情報コンセントがあったことです。技術進歩はすごいものです。ただ、電話回線での接続だったのか、転送速度は極端に遅く、また、セミナーにある機械は本部が利用した残りのようでした。プリンタがあるとなおよかったかもしれません。
 場所は小室山のすぐ横で、柵を乗り越えると、小室山の入り口にたどりつくことができます。
 ゼミ合宿では、解釈を中心として内容学的な検討をします。方法学が中心のゼミなので、内容学としてどこまで、それまでの内容学研究を入れられるか、ここにかかっています。そして、今回は初めて古典を取り扱いました。田村さん、佐野さんの発表にみんなが討議していきました。『伊勢物語』の「梓弓」では、その解釈がゆれる表記に注目し、ストーリーを想像する余地が多いが、歌によって、どのように二人の心がゆれうごくのか、それを歌と地から判断できるようになるかどうかというところが問題点として残ると思います。また、『日本永代蔵』では、教材として掲載されている価値をどのようにわれわれが意義付けるか、そのために、文体を理解し、他の古典教材の文体との比較からその独自性を発見できるか、ここに問題がありそうです。
 古典教材の場合は、新しい知見を発見する過程を重視しないと、講義で終わってしまいます。その知見を発見する過程をことばから探していく営みを学習者の主体としていくこと、その実際の方法を検討することがわれわれに課せられた課題でしょう。
 さて、2日目の『こころ』については、これは午前、午後、夜に至るまで、『こゝろ』論と教材としての『こころ』論を指導者がどう考えるか、特に、「Kの自殺」をどう見るか。そこには「明治の精神に殉死」ということがあるかの、ならば、その関係性は、など指導者の教材研究の視点、解釈から指導方法へ展開させる必要性があることを学びました。
 議論をするときには、ディベート的に、相手の欠点を追究しようとすると姿勢が多く一般に見られます。問題点があった、場合は、その過程を理解し、次にどのようよくするのか、その検討が必要なのに、欠点指摘のみでは、先に進めません。新しい提言、提案があるかどうか。そゆういう知的な議論の楽しみができるか、それは、議論する相手と自分との関係性にあります。一対一の関係があるかどうか、それを築けるか、それが今後のこの社会のコミュニケーションの問題であると思います。
 ことばと出会い、ことばを自己のものとして、取り入れ、自分の考えを作り上げること、それは、かけがえのない自分のことばで、今の自分を表現することに他なりません。
 多くの人と議論すること、そこには表現を伴います。それゆえ、自分はどうおもうのか、その根拠が必要となります。そして、議論しながら、自分の意見を他者の意見とすりあわせながら、別の高次の結論を出すこと、それが議論であり、自己表現の向かう道であり、コミュニケーションであるかもしれません。
 それにしても、合宿では、いつも北林さんと口論になりますね。まあ、私の方も挑戦的なのですが、願う所が似ているかもしれません。もっと、酒量に比例するのでしょうが。そういえば、合宿になると、就寝時間が3時を超えてしまいます。相当量のコミュニケーションをしたいと思う、つまり同じ志の人と話し合うことは、相手への理解を求めよりも、自己の考えの確認する意識の方が多いのではないかと思います。今年は体調の都合で、小原さんがいませんでしたが、来年はぜひ、小原さん、石毛さんと一緒に議論したいと思います。
 最初、合宿をするときに、私は茨城の温泉でおいしい海の幸に舌鼓を打ちながら、野口雨情記念館に行こうと提案したのですが、その提案はいつの間にか消えてしまいました。この冬には、ぜひ、大洗に行きたいと思っています。

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