鴛鴦呼蝉庵日乗
   2001.10.6 歌を聴くことと自分の歴史
 みそ汁の具にさつまいもやじゃがいもを入れて作るとき、おなじ材料、おなじ味噌、同じだしでも、味が違い、おいしさに欠けます。同じ内容でも、味が違うのは、それは、食べるということが、実は精神的なことだからです。食べるというのはおいしいという精神的なものなので、一人で食べるのと気のあった人と食べるのとではかなり味が違って感じるはずです。また、具を作るにしても、大人数作るのと、一人分作るのでは、それは具からしみ出る味というもののからみあいが違います。食べるという精神活動が気分に影響することがあるという例です。
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 歌を聴くことも精神活動だと思います。いい歌は心に残り、そして気持ちを安らげて、楽しくさせます。そのような楽しさ、それを味わうこと、歌を聴くことです。その歌ですが、同時進行で聴くことはライブにでもいかないとありません。ライブでも歌を聴くことは、一体感を感じることです。ライブビデオで懐かしく思ういうのは、それは、その時の一体感を思い出すからではないでしょうか。歌に込められた自分の感情、あるいはステージの様子、会場の様子、さまざまな要素が思い出されるものです。そして、その歌を聴いていた時の心情を思い出すものです。
 昔、有明コロシアムでのライブでの出来事でしたが、アンコールに拍手ではなく、演奏された歌のコーラスを観客の片隅から歌い始めたのです。すると、そのコーラスは会場すべてを覆い、一大アカペラのコーラスができました。そのコーラスに応えてメンバーが出てきた時に、メンバーのリーダーは驚いた顔をして、そして、絶句していました。
 べつに大したことではないのですが、客という聞き手が歌い手にメッセージとして伝わったという一体感があったのでしょう。客全体が感動に包まれました。その日、その時にしかない出来事。それを共有できた喜び。そして、思い出。今でもその時のコーラスのメロディーは鮮明に思い出されます。そして、その時の自分。何かの不安につつまれた自分で、何かを打開したいと思っていた自分。そのやるせなさの中で救われたのが、あのコーラスでした。その自分を思い出します。
 歌は、歌としてのことばとメロディーだけではなく、自分の気持ちが入って歌となっているのであって、歌を聴くことは、すなわち自分の歴史を鑑みることであるということなります。
 だからこそ、聴きたい曲はその時に聴いた方がよいのであって、聴きたいライブはその時に行かないと思い出にできません。昨年の大晦日に行なわれたカウントダウンライブに私はたまっていた原稿作成のために行きませんでした。その後、ライブビデオが販売され、そのビデオを見るたびに一体感を味わいたかったと反省しています。聴きたい曲を聴きたい時に聴く。それは、聴くという安心、安らぎではなく、自分自身の歴史を作ること、自分のその時に感情を記録することにほかならないのです。
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 もちろん、それは演劇や絵画にもあてはまります。法隆寺に奉納された平山郁夫の絵を見た人、この人は私の唯一の理解者ですが、この人は、行って良かった、絵を見ていくうちに、その絵の向こうに音楽が流れたというのです。それは、実際に聴いた音楽ではなく、心の中に響いた曲だということです。私はまだ平山郁夫の絵を見ていませんが、そのメロディーはその人の欲している心の動き、そしてその人の歴史そのものなのかもしれません。きっとその人は、その時に幸せな時代だったということなのです。その証拠に、法隆寺に行ったことを、とてもうれしく、一つ一つを丁寧に語ってくれました。語るその楽しさ、それを伝えようとしたことに、私はうれしさを感じます。
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 さまざまなものを見ること、それは見るという享受だけでなく、自らの歴史を刻むという表現だったのです。

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