2002.11.22 偶然
 自分の考えは、他人にはわからない。ある時ひらめいたことは特にそう思います。ところが、実は他人も同じ様に感じていたということがありました。中学の頃、「蘭学事始」の訳本を読んでいたら、「フレッヘンド」のところで「堆し」と訳すに、そうとうな時間がかかったというのがありました。当初は誰にもわからないのです。それでだんだと例を見ていて理解します。そういうものです。しかし、その例もすべてが違っていたら。「野蛮」が「Japan」と同じなんて、高校になるまで知りませんでした。それで、ある時、「apple」という単語が本当に「林檎」なのか、ふと疑問に思ったのです。最初、この言葉知った日本人は、アメリカかイギリスで林檎をみてこれはなにかと尋ねたらその人は冗談で「apple」と言ったかも知れません。それで、その後は日本人のために単語の本などでことごとく、林檎を「apple」と表記するようになったのです。いつも日本人が林檎を「apple」と言うと、表面上はその通りうけとって、実は陰で笑っている。本当は「apple」は「靴下」かもしれません。
 このようなことを考えている人がいました。全てが仕組まれた世界であって、自分は周りの人にだまされている、言わば、「トゥルーマンショウ」の現実版。なにか他人の目が怖くなると、感じることがあります。自分には何もないはずなのに、他人がなにか笑っている。それはきっと自分のことを笑っているに違いないと思うこと。以前はよくありました。人間不信というか、何か耐えられないことがあったときに。しばらくして忘れて何年経ったか。そんな共通体験をしていた人が一人でなくいたのです。今まで自分の中に默っていたのを雑談のように話したら、実は同じように思っていた人か何人かいたということです。

 つまり疑うと、全てが疑いの目で見てしまい、知らない他人も自分を陥れてしまわれたように感じてしまうのです。他人ならまだしも、知っている人が自分に対してそういう態度をとると、どうなるか。それは辛いことです。本心がどこにあるかわからないから、余計想像してしまいます。これは、自分と他人との間に、自分が作り上げた他人の像があるからです。自分の中にある他人のイメージそれを作り上げている自分。しかし、もっとおもしろいのが、そういう他人を見ている自分を自分でイメージとして作り上げていること。本当の自分とは違う自分のイメージを作ってしまうことです。自分をも自分の中でイメージしてしまうことで、自分と他人との関係を勘違いしてしまう。

 今日は、いろいろ思い悩む人、何人かと話しました。励ましているのですが、その実は、何のアドバイスにもなっていないようです。人は人にアドバイスをするのも限界でしょう。人の能力は少ないから。がんばりたいと思う気持ちと、自分の限界を感じさせてしまう気持ちとあります。だから、あまり伝えない方がいいのかもしれません。言いたいことは一度きりで、それでおしまい。そうなればいい思います。それで終わり。後はその人がずっとがんばってほしい。そうは願っても、実際に行動するのは私ではないので、期待することは危ないこと。これはまたいずれに。

 田近先生から、「府川先生がよろしくと言ってました」と伝言。恐縮至極です。いやー、大御所にそう伝言されてしまうと、もう後へは引けません。ありがたいことです。

 背中が変にしびれます。窓拭きをしたせいと思いこんでいますが、どうも違うようです。四十肩も少しずつ固くなってきている、その減少でしょう。なるべく肩を回しているのですが、やりは鈍痛があります。しばらく手を回さないと治りません。

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