鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.02.20 意欲

 今朝から夜まで、久しぶりに気分がよくなくて、悪いことばかり考えていました。原因は何か、わからないのですが、いろいろなことがうまくいかないからかもしれません。何を見ても、悪いことばかり考えて、最悪の状態でした。意欲の減退もそういう気分的なものから来ます。だから、なるべく向上する方向で考えてきたのですが、今回のつまづきは以外でした。それゆえ、不可解であり、怖いことです。でも、今は悪くないので、安心ですが。
 自分の引き際ということを考えています。ある部分の係ですので、それはどうということはないのかもしれません。ただ、私にはある決意と理由があるのですが、それを言わないで係を降りることにしたのですが、言う必要もなく、そして、言うことで混乱も生じるからという判断なのですが、その判断が正しいかどうかも不明です。でも、そのことを言わないで、別の理由を公言しているのですが、どこまでそれが通用するか。ここでこのように書いてしまっていること自体、すでに公言しているのと同じだと思われるでしょうが、一般的に、そういうこと、つまり自分の真意でないところで、自分のことを他人が推測していくことはよくあります。だから、同情やあるいはその反対である、避難や嫌悪に向かうと、あたりまえなのですが、理解されていないことを実感します。それがショックということでなくて、理解されないままということは、よく体験します。
 私自身、誤解されるとそのことを弁解しないで、誤解する方はいくら話しても先に入った情報で動きますから、誤解されたままでいいと思ってしまい、コミュニケーションを閉ざしてしまいます。弁解ということがいかに無駄な時間か、今まで何度もありましたから、だから言うことは面倒なのです。そういうことの重なりが私を電話嫌いにしています。電話で話すなら、直接会った方が楽です。電話というのはどうも緊張する。そういう道具はいらないのですが、社会的信用や緊急の手段してのみ存在しています。
 伝も留守番になったままですし、そろそろ変更しなくては成りません。
 誤解を解くこと、そのために発する言葉がまた、誤解を生じるだから、言うことは面倒になってしまう。これからの行動で判断してもらう、そう思っても、結局は相手は誤解したままです。それを貝吹にするには、相手が信用する第三者が、客観的に証拠をつきつけていくしかありません。人は信用するひとのことばを聞きますが、誤解する相手は信用しないからです。だから、そのまま、永遠に回復しない関係を保つのです。感情で動いているからです。そういう誤解は永遠なのでしょう。
 もちろん、誤解が解けることもあります。そういうことは滅多にはありません。ただ、時間が経つにつれて信用になることもあります。不思議に客観的になるからでしょう。でも、その時には私は何の意味も持ちませんし、思い出としての存在価値しかありません。存在価値を問われているのに、思い出としてその添えられたものとして価値があっても意味がないのです。
 意欲がないから係を降りるという誤解、意欲という問題ではなく、美学というのが正しいか。中野幸一先生が定年の時に、最終講義を行わない、その美学は、私にとってうれしいことです。もちろん、最終講義をしたいという方もいるはずで、その場合は、研究発表という方法もありますから、いくらでも、手段はあるのです。多田、私にとっての美学というものは、単に継続される文化ではなく、自分としての一回性のものなのです。

 CONTAXがデジカメを出すとのこと。T2と同じ大きさとレンズですから、これは、きっときれいに決まっています。いずれ買いたいと思います。それよりも、速く、レンズは固定でも、35mmの1/1型CCDデジカメが出ないかと待ちわびています。あるいは、6×7の1/1型CCDが出るとすごいでしょうね。


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