鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.06.07  ライバルの存在価値

 親子もライバルになります。でも、それは愛情を伴うものであって、そしてなおかつ、そのライバルはいらないものではないのです。むしろ必要なのです。ライバルがあってこそ親子げんかができるのであって、なかければ「無」なのです。嫌いなものがあるのは、それは嫌いなものが必要だからなのです。必要でない場合もありまりますが、つい、邪険に扱ってしまうのもそれはライバル意識があるからです。その意識の変化をもって反省するには、まだ早いのであって、反省する前に攻撃と防御を繰り返し、より高度な攻撃と防御をしていくこと。その繰り返しによって、実は、親子は進化していくのです。それを成長といいます。成長の過程での親子の葛藤、けんか。それは実は見苦しいように見えて、実はほほえましい事実でなのです。司修の「銀杏」で光平と母親の会話も、端から見ると、親子だからできることであって、一人ではできないことなのです。その幸せは当事者には当然わからないことなのですが、第三者から見たら、幸せの行為に見えます。
 シャマラン監督の「アンブレイカブル」でも、ヒーローには常に悪役が必要です。敵がいないと価値がないのです。「アンパンマン」もそうでしょう。敵がいて自分が食べられたり、あるいは誰かに食べてもらって新しく作ることができるわけで、そうでなければ、黴の生えたあんこをかかえたまままアンパンマンは生きていくことになります。
 敵と味方という概念、源平の闘いもそうで、敵がなけば成り立たない。その意味では、構造的に敵味方という概念規定の操作の中にあるのが、源平であり、そして親子げんかなのです。ただ、その位置をしらないことから不安を生じるのであって、その不安をどのようにして取り除くかというところに、苦心があります。端から見れば大してことではないのですが。

 最近、事実と抽象というテーマで講義しているのですが、このテーマ、なかなかわかりにくいですね。「食事をする」というのは、行為の総体を指すもので、行動としての「食事をする」は、箸を持つ、ご飯を箸でつまむ、箸を口に運ぶ、ご飯を口に入れる、ご飯を噛む、ご飯を飲み込む、といった行動を繰り返し、そして他の食品を口に運び、咀嚼し、飲み込むという行動を伴います。その具体的な行動が存在して、その存在が終了するまでの行為の総体を「食事をする」という意味をつけるのであって、いわば構造的な置き換えをしているのです。「勉強する」ということばで、一連の作業を置き換えてしまうこと、それは怖いことです。

 受験生の不安は、他人や外のできごとでなくて、自分がどこまで能力を伸ばすことができるかというものであり、そして自分の中にある堕落してしまいそうな心であり、そういうものが全て自分の中にあることなので、どうしようにも発散できません。他人ならいかようにもできますが、自分の中にあるものですから、時にはその発散のために暴力的になったり、ものを投げたりということもあります。それは行き場のないものにちがいありません。
 たがらこそ、聞き役に徹するのがいいのだと思います。

 昨日の就寝時間 4:30、起床は7:00。3:30就寝時間。それも、布団でなく座椅子で。むちゃなことも何度かしています。


前へ 目次 次へ
かくかい Copyright 黒川孝広 © 2003,Kurokawa Takahiro All rights reserved.