鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.11.21  自由と自分   
 

  なぜ存在しているのか、その理由はわかりませんが、確かに存在しているのは事実で、存在価値はわからないけど、存在しているのは事実だから、存在している価値があるというように考えることができます。

 自由というとかえって辛いことがありますが、自由だと、自分で規制したり責任を伴うから、自由すぎるとかえって辛いのでしょう。他人からの規制はそういうとき楽ですから。レールの通りにすれば、生きていけますから。

 自分の存在価値を問う時とは、若い頃、年を取っての転換期の頃、そして、だれかと話していて、その人が相対的な存在だと知ったときでしょうね。だからこそなのだと思います。
 自分は自分で、他人は他人であることを認識することから始まりますね。自分とは何かという存在の価値、自分の生きる場所としての存在感でしょう。
 いや、そういうこと自体がすでに自分の意識を越えない、あるいは、意識をつくりあげてしまった構造の中にいるのではないかと。

 時間と自分の能力と、そして、絶望と、無知と、奴隷と枠組みと、個性と、芸術と、美しさと、本音と、未来と、現実と、生ゴミと、足のむくみ、風邪、時計、限界、新しさ、辛抱、その他。いろいろなものがせめぎあってきて、ここしばらくは乗り越える時期なのでしょうね。まあ、そんなものです。人生は。

 言葉を使いすぎると言い過ぎます。ちょっとした言葉、その思いやりがないと、人を傷つけます。思いもかけないことで、相手が傷つくことがありますね。きっとそれは真意が伝わらないからなのでしょう。そういうときは、ただただ、時間が解決するのを待つしかないようです。ひたすら。特に、意識していないときの言葉ですね。そういうのなら、どうしてもしかたないのです。そういうことはいつもあることで、それをいつまでも、引きずるとよくないのですが、引きずっていくことで、何も生まれません。

 いろいろ書きたいことがあったのですが、忘れました。金曜日は浜本先生と話す日ですから、話題はいくらでもあるのですが、書き記しているノートを見る時間も、もう深夜でつらくなってます。

 帰りに駅で、看板をみているとき、初めて左の視力がかなり落ちているのに気づきました。どうりで、頭痛がするわけです。

 座骨神経痛、痛みは少しですが、鈍く、じんじんと痛むので、長時間イスに座ると、きついのですが、それでも座ってます。がまんくらべですね。

 4:20就寝、7:10起床、2:50睡眠。


前へ 目次へ 次へ
かくかい Copyright 黒川孝広 © 2003,Kurokawa Takahiro All rights reserved. see you next time