鴛鴦呼蝉庵日乗
2004.04.07  愚痴

 昔、芸術座で、「芝桜」と「木瓜の花」を見たことがあります。杉村春子と森光子。二人で150歳ぐらいでしたか、高齢なのに、年を感じさせない演技でした。

 学校の宿題、よくありますね。特に夏休みとか春休みとか。そう言うのは、嫌いでした。なんで休みなのに宿題があるのかというものです。自分で勉強する習慣をつけようとして宿題を出したのでしょうね。休み中に忘れないようにするために。
  でも、休み中に忘れないようにするなら、休みにしないで授業にした方がましです。でも、そんなとしても勉強の力、学力というのでしょうか、そういうものが伸びるとは限りません。与えられたものを与えられたものとしてこなしても、そこに興味がないと、別に対して成果はありません。興味が生まれることも有りますが、それは確率的には低いでしょうね。
  よく本嫌いの人に強制的に本を読ませると、本好きになるという報告がありますが、それは本嫌いではなくて、本は読みたいけど、どの本を読んでいいのかわからないとか、本を読むきっかけがない人が、きっかけや読む時間を与えたわけで、つまり、そういう人は、もともと本を読みたいという意識があるのです。
  だから、本嫌いではないのですね。勉強もそうで、国語嫌いとか数学嫌いとかいうの人のいくらか、どのぐらいかはわかりませんが、多分半分ぐらいでしょうか、嫌いではなくて、成績が低いから苦手になって、嫌いという意識を生むということがあります。嫌いな人でも、偶然、テストの点数がいいと、好きになったりします。そういう例を何度も見てきました。嫌いというのは感情ですから、感情で好きになることもあるのです。
  でも、成績は努力ですから、努力なしの偶然は長続きしません。ところが、偶然が2回続くと、それは、必然と思えて、それでがんばったりします。ですから、勉強というのは、単に、努力だけでなくて、心理的な偶然とか、あるいは別の意味で、好きになったりしますね。そういうものです。感情的なものなのです。
  で、先ほどの休み中の勉強ですが、自分できっかけや感情を生むには難しいですね。体験が必要なのです。もっと。休み中は特に、体験が必要です。生活の、遊びとかから学ぶことはたくさんあります。その学びがなくて、学校の教科というものに限って、何かをしようとしても、その興味は教科という枠に縛られます。そういうものよりも、もっと、自由な世界から興味を湧かしていくこと、それは歌でも芸能人でも、漫画でも、アニメでも、何でもいいのです。そういう興味から探求が生まれます。
  漫画もそうですね。好きになると、単行本を探して、最初から読みたくなる。そういうものです。単行本がなければ、次の店を探す、探して、探して、やっと得て、そこで喜びを得る、そういう体験が実は、内容の感動を伴います。そういうきっかけを作るチャンスが休みなので、与えられたものの消化というのはどうかと思います。家庭に戻す時に、家庭がその力を持たないのなら、何も意味もありません。そういうものです。学校という世界は、家庭にいる時間よりも、はるかに少ないのですから。それだけで、勉強できるなら、全員が勉強できて当然です。でも、出来ないのは何かというと、もっと別世界の、感情が必要だからです。
  休み中に課題を与えて、その試験を休み明けにする、そういう手法はよく使われますし、よく使います。それは自学自習力の高めですが、でも、そういうものをやらないひとは大ですね。宿題をやるのは、提出する前日とか、徹夜したり、工作なんかで針と糸を見て目がしばしばするとか、あるでしょ。そういうものです。
  そういう時間よりも、もっと、友だちや教師が関わって、そこから集団から何か学ぶ、教えるという行為と、学ぶという行為がそれぞれ作用し合う場にこそ、発展がある、と思います。もちろん、一人で自学自習することも発展があります。でも、与えてそのままで試験をするというのは、途中でわからないことがあったら、どう質問したらいいのか、できませんね。むしろ、わからない人の心理を読み取って、アドバイスするのが学校という場ですから、与えてそのままというのは、放棄に近いと思います。
  もちろん、全ての課題が悪いとは思いませんし、課題の効果もあります。ただ、ヒントもなく、学ぶ方法もしっかり与えてなく、それを試すというのは、武者修行や無人島での訓練とは違って、全は一、なんて考えは出ませんね。そういうものです。
  興味や関心があって、そこから抜け出して、発展したい場合に、難題を与えても、その興味からがんばって解いていこうとします。そういう力を引き出すことは、日常の人間との関わりです。
  何が一番大切かということを考えると、それぞれが学びを成立していくことを支援することですね。何もしないということはありませんから、その支援の中で、学びの方法を身につけ、学ぶという責任を自覚させることでしょう。待っている姿勢をどうにか変えていくこと、それは責任を伴うから、一生懸命やるということを感情で説くしかありません。論理ではないのです。論理とは、感情を伴いますから。

 信用されていないところ、何を言っても無駄ということがあって、いや、大したことではないのですが、システム、経路というか、組織の問題でした。で、結局、交通整理をして解決。それにして、みんなが、みんな自分で組織を動かしている意識を持ってしまうと、結局、他人の領域まで中途半端に口を出しますね。ちゃんとその担当場所を管理している人の、総合的な考えがあるのに、その考えを無視して、考えを持ち込むから、結局、ミスをする。そういうことの繰り返しなのを学ばないのが、一番問題ですね。もし、口出ししするなら、その担当場所の管理を徹底的に行ってから判断すべしというところでしょう。判断というのは、実際の証拠があってこそ、そこから動くものです。それなしに、意見をいうと、空回りします。いわゆる、「うさんくさい」状態ですね。
  積極的な改善を考える所、ある程度のいい意見は生まれますが、そうでないと、規制する意見で終わってしまいます。そうなると、発展は生まれません。

 それと、今日の話で、意見が一致したのは、探しもしないのに、尋ねる人ですね。そこのトレーにあるのに、探せば、その下にあるのに、探しもしないで、どこにあると聴く場合、そこにあるから探してと、言えば終わりですね。それが、新人なら、まだしも、何年ものキャリアの人から言われると、どういう人生を送ってきたのかという不思議というか、感心というか、あきらめというか、なんとも、いえない、気分になります。

 職場に対する愛着って、どうしても必要なのか、いつも疑問です。それを強要させることの疑念ですね。人によってその程度が違うのに、自分と同じでないと気が済まない、心配者に合わせる必要があるのか、そう考えてしまいます。
  自由であるから生まれるものもあり、不自由だから生まれるものもあり、それぞれですが、ただ、阻害しておいて、その阻害をまったく考えないというそういう人物の集団で、面白いはずがありませんね。そういうものです。だから、自分の好きなようにして、好きにやるのがいいと思っていますし、それで迷惑をかけても、相手が掛けた迷惑に比べれば、大したことありません。もっとも、そういう迷惑というのも、相対的で、相手と自分との迷惑度というのは、かなり差がありますし、その意識も差があります。そういうものです。
  まあ、どう考えても愚痴になっておしまいということになりそうですね。
  それでも言えることは、組織もそうですが、伸ばすには、一人一人を伸ばすことで、その伸ばすとは責任と活躍の場を与え、そして、その人格を認めていくことにあります。それがわかっている職場は伸びますね。それがわかっていない職場だと、その程度の伸びしかありません。結局は個の問題なのですね。システムの問題はそれを作り上げていく文化としての個人の問題でもありますし、よりよくしていくのに、いろいろの阻害があるなら、今まで通りでいいという考えになります。それは伸びでなく、守りです。そうしてきたら、伸びないということに気づくときには、もう対応は遅れますね。だから、みんなで焦っていくのでしょう。それはしかたのないことです。

 人を制するのは難しいですね。太陽政策か、北風政策か。ただ、どのみち仮面をとることはできませんね。

 桜吹雪でした。美しい光景は、人を立ち止まらせます。美しい光景は、人を無口に、そして止めます。それは、美しい光景を見るからではなくて、光景に美しさを感じた自分の意識が、感じたままの状態をそのままにしておきたいからでしょう。人は、自分の意志で感動しているのですし、感動するだけの心をもった自分がいるという発見なのです。

 桜の写真をとりたかったのですが、時間がなくて、まもなく季節は流れていきます。

 5:00就寝、7:00起床、2:00睡眠。
  朝食、パン2枚。昼食、パン2枚。夕食、外食。夜食、なし。

 
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