blue 鴛鴦呼蝉庵日乗
2004.08.19  鉢巻き

 オリンピックのメダルの数がどんどん増えていて、メダルをとらない日はないぐらいの勢いです。一つのメダルが他の種目の選手にプレッシャーをはねのける要因になるのなら、メダルは、オリンピックは集団的な精神的競技、つまり、国という意識を背景にしたものになりますね。でも、実際には個人のプレーによって成り立つわけですから、個人を中心とした世界であると言えるはずです。
  でも、これが集団的な心理において影響するとなると、国家的な意識がどこかに出てきます。選手達は意識しなくても、応援する側に出る可能性はあります。
  テレビで観戦していて感じたのは、各競技場での観戦者数が少ないことですね。もちろん地元の選手が出れば人数は多いのですが、ほとんどがら空きです。その中でも日本の応援団はそれなりの費用を出すわけですから、熱心な人たちにの支えで、選手達もがんばっているのでしょう。
  その中でふと、柔道の快進撃、いや、柔道の選手がそれぞれがんばった成果でメダルを獲得できています。その応援の雰囲気を見ると、そろいの法被や鉢巻きなど、工夫を凝らしていますが、浴衣や帷子のような衣装も登場しました。そしてそれがだんだんエスカレートしていくような気がしています。
  そんな中で、気になってしまったのが、鉢巻きですね。日の丸に「必勝」という鉢巻き。そして国旗の寄せ書きです。国旗の寄せ書き自体、それほど大したことはないと思いますが、国旗の寄せ書きはいつ頃から日本において起こったのか、知りたいものです。旗印に寄せ書きするというのは、どういうことなのか。実はよくわからなかったりします。それは国家なのか個人なのかというところですね。たとえば、自分の住んでいる地域、例えば、北島選手の場合は、東京都の旗を持ちませんし、荒川区の旗でもありませんし、自分の家の家紋でもありません。体操の選手が日の丸の寄せ書きを投げられたのを拾ってかざしてました。
  それで思い出したのが、はるか昔、甲子園の高校野球を見たときのことですが、その高校の応援団が準備をしているときに、校旗を通路に準備していました。その横で下級生らしき人が「校旗をまたがないで下さい」と注意していたのを耳にしたのです。校旗というものがシンボルであるから、それを大切にして、またがないようにするということです。決して投げたり、地に付けたりしないようにするのでしょう。実際には地につくことはありますが。
  ある意味では、オリンピックで寄せ書きして投げられた日の丸は既に国旗としての意識を超えた、国旗として意識して書いたにもかかわらず、結果として、色紙の寄せ書きと同じ効果、千羽鶴と同じ効果を奏していたと考えられます。果たして、書いた人たち、投げた人たち、見ている人たちはどういう意識なのか、これも調査するに値する事項だと思います。
  鉢巻きですが、あれはあれで終わればそれでなんともないのですが、歴史的に日の丸の必勝の鉢巻きで、応援することで、戦時の記憶が蘇ることがなければいいがと、心配してしまいました。教育への管理や規定強化、そして様々な点で戦前の状況にそっくりになっています。これから歴史をふまえて二度と繰り返してはならないようにしていく大切な時代に、鉢巻きという伝統的な日本の方法で応援すること、それ自体は否定しないのですが、他への影響を深読みすると、心配になります。鉢巻きという思想は、どこから来るのかよくわかりませんが、その思想は歴史的に団結心というものだとおもいます。もちろん、汗の防止や、頭痛防止などもありますから、一つに限ることはありません。気合いを入れるには鉢巻きという取り合わせは昔からのことで、文化そのものです。それがテレビを通して見たとき、不思議に違和感を感じました。それはいったいなのなのか。
  オリンピックの応援、これも時代とともに変わってきました。変わること自体は歴史の必然です。ただ、そこに感じる違和感、論理的に説明できない違和感、そこに自分の中の国家と個人という考えが潜んでいるかどうか、もう少し考えてみる必要がありそうです。
  1:30就寝、9:00起床、7:30睡眠。
  朝食、なし。昼食、そうめん、だだちゃ豆。夕食、ごはん、みそ汁、冷や奴、サラダ。夜食、カスピ海ヨーグルト。

 
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