鴛鴦呼蝉庵日乗

2006.08.21  優勝

  第88回全国高校野球選手権大会、決勝戦の引き分けの後、再試合の決勝戦で早稲田実業が優勝しました。早稲田実業のみなさん、おめでとうございます。テレビでは放映されませんでしたが、「勝利の拍手」ではきっと、感無量だったのではないでしょうか。新聞などで「早稲田実業高校」とか「早稲田実業高」などの表記がありますが、正式には「早稲田実業学校」で、その中に、高等部、中等部、初等部があるので、わかりにくいのでしょう。もっとも正式名称は「早稲田大学系属早稲田実業学校高等部」と言うべきですが、その通りの名が使われることはほとんどないので、「早実」が一般的です。名称問題は、校地が早稲田から国分寺に移転するときに出たことで、しかし、同窓会の今井君をはじめ、多くの方の反対があり、名称はそのままになったわけです。「実業」とはあっても、すでに商業科がないので、その名ばかりのようにみえますが、実業ということは、何も商業のみではないので、実際に社会に貢献するという意味で捉えていたと思います。
  1980年の第62回大会で、荒木投手と横浜の愛甲投手の投げ合いがありました。もっとも投げ合いといっても、両投手とも途中降板して、芳賀投手と川戸投手の投げ合いとなりましたが、あの時以来ですね、早稲田実業が決勝に出たのは。決勝戦のときには、それまで売店で売られているペナントに「優勝戦」と入ります。これも記念のものです。
  あいにく、用事があって甲子園には行けませんでしたが、数日前の試合をテレビを見ていたら、どうも三枝君らしき姿があって、もしかしたら、もっと多くの方もいたのかもしれません。あの暑い甲子園で、あの熱投、そして、全国制覇、みごとです。
  1980年の準決勝で勝って、勝利の拍手の後、多宇先生の涙姿に感動しました。きっと、多宇先生は今日も歓喜の涙であふれていることと思います。テレビでは早稲田の栄光、勝利の拍手までは流れず、ただ、夜のスポーツニュースで、斎藤投手のインタビューの時に、勝利の拍手のリズムが聞こえて、「ああ、やっているな」と感じました。
  準優勝の時は、パレードなんて必要ないという意見が多かったようですが、準優勝だからという声がありました。今は時代が変わったので、パレードすることは、応援してくれた人に感謝することなのかもしれません。
  準優勝の時、私は甲子園からバスで帰り、朝、着いたのですが、そのままフィルムの現像をしました。それを手にとって、急いで東京駅へ。そして都庁へ。そしてなんとか写真を焼いて、掲示板に貼りました。そして早稲田通りのパレードに行って、撮影。とにかく忙しい一日だったことを覚えています。そして、その決勝戦の直前、内野の通路の横から立ち入り禁止になっていて、その向こうに佐藤君や播磨君、朝田君がいて、向こうも気がついてくれて、これからだなというのが、印象的でした。朝田君の代打空振り三振も、一球一球、ファインダーから見ていました。佐藤君、播磨君、朝田君の活動は中学の時から試合を見ていたので、その日が、野球している姿を見た最後でした。

 甲子園の思い出と言えば、勝尾寺で、コンパット・マーチの編曲者、牛島芳先生とお話が出来たことで、なぜあの曲を編曲したかとか、野球の観戦が大好きだったことなど、思い出されます。残念ながら、お話を伺った数年後に亡くなられて、もっと話を伺えばよかったなと思いました。
  そしてもう一つが、甲子園のアルプス席の段差が均等でないので、つまづいて、ころんだときにカメラをかばって左手を怪我しました。怪我の処理をきちんとすればよかったのですが、試合中で、急いで、トイレで洗って、そのまま撮影していました。結局、その後の処理が悪くて、今でも傷が残っていますが、これも甲子園での思い出です。でも、この傷は1980年だったか、その前だったかはもう記憶にありません。そういえば、あのときは3塁側に亀がいました。

 いずれ、あの1980年の試合の模様の写真についても、いずれ公開しようと思いますが、肖像権があるので、どの程度公開できるかは、わかりませんが、解像度を低くして顔が分からない程度ということで、処理したいと思います。

[今日の記録]
睡眠時間:2:00就寝、10:30起床、8:30時間。
天気:曇
最高気温:32度

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