鴛鴦呼蝉庵日乗

2001.9.1 夏初めと終わりの花火
   昨日は、秋雨が降り気温もすでに秋の風を感じられるほどでした。七月に猛暑があって、八月にはそれほどの猛暑もなく曇りが多く、いつか季節が一ヶ月早くなって、季節感がなくなっていく感じがします。
 もっと、それは便利になったことも影響があるかしれません。温室栽培によって、一年中同じ野菜や果物が食べられる、それ自体が昔から考えると不思議です。真夏に温州ミカンをたべたり、西瓜を食べたりなど。キャベツもそうです。きゅうりだって、いつでも食べることができます。便利になると、季節感が失われていきます。秋になれば栗の季節。その栗を食べるたのしみも、今や一年中食べることができます。もっとも、おいしいかどうかは疑問です。おいしいものをおいしく食べること、それは、旬ということがあります。
 花火と言えば、線香花火が日本人の郷愁を誘うもの。そんなこまごましたものは嫌いという意見もありますが、大衆の意見は、はやり線香花火に代表される、「わび」「さび」なのでしょう。
 それでも、この花火に心惹かれるのは、その季節感ではないでしょうか。冬にも花火はありますが、やはり、夏の暑い時期に外に出て、空を眺めるということ。そのこと自体が意味を持ち、その意味と共に、夜空を焦がす火。お盆の送り火、迎え火を見るとの同じ感覚。そして、夏という季節につきものの夕涼み。これらの意識が花火というものを夏の風物詩として受け取ることが出来るのです。つまり、花火を夏に見るということ自体がすでに、私たちの文化になっているのです。この文化は、一瞬で消えてしまう切なさを持っています。この切なさが、光を惜しむ気持ち、その一瞬、一瞬に思いを寄せること、それが文化なのかもしれません。
 毎年隅田川の花火大会を帰省がてらに見に行きます。すでに、いつも見る場所からは、高層マンションが花火を隠してしまいました。来年は、別の場所から見ることになりそうです。
 夏の風物詩は、一瞬を惜しむもの、それは、桜の花とおなじく、短く、そして華やかなものにあこがれる文化があるのかもしれません。それは、長続きしない政治かもしれませんし、また、江戸では火事が多くそれゆえ、土地を持つこと、家屋を持つことは意味がなかった、それよりも、借りておいて、火事で焼けたら別のところへ転居するという財産についての無常観。それが、この文化なのかもしれません。もちろん、このことは、江戸以外ではあてはまらないことです。それゆえ、根拠としては薄いものがあります。
 でも、私はこの一瞬の華やかさにあこがれること、それを信じたいのです。それは、その時間の終わりを告げるものです。はじまりではなく、終わりなのでしょう。同時進行で見ていた花火は、それが消えてしまえば、終わりを意味します。
 昨日の夜に、近所で若手グループの野外コンサートがあり、その終わり際に花火を打ち上げていました。コンサートの終わりの花火、それはコンサートの盛り上がりとともに、そのコンサートの終わりを意味します。8月31日に花火が上がること、それは私の感覚では季節はずれですが、コンサートを見ている人は夏の終わりを意味します。それは、そうでしょう。野外コンサートは冬にはなかなかできませんから。以前、有明コロシアムの野外コンサートに行ったとき、アンコールの前に空を見上げて、一つきらめいた星を見つけたことがあります。その時のアンコールは不思議で、アンコールが拍手ではなく、観客がパックコーラスだったのです。だれともなく歌い出したあのコーラス、それは、まもなく終わるコンサートに向けての切ない思いを寄せた、終わりの儀式だったのかもしれません。
 今年、一つの野外コンサートに行く予定がありましたが、さすがに前々日に富士山に登っていたため、体調のこともあり、あきらめました。昨年の大晦日の野外コンサートも体調を考えあきらめました。最近はライブビデオが販売されますから、それを見て楽しむことはできます。でも、それでも物足りないのは、一体感です。おなじ時間を共に過ごすという一体感なのです。その昔、好きでもない歌手やバンドのライブに行くことがありました。その一つ、渡辺美里の西武球場の時、たしか「misato ribbon」の頃だったと思いますが、雨の中、ステージに向かって、手を握って振る動作は、宗教行事にも見えました。でも、それはその時間を共に過ごした一体感を味わえるものです。たしか、そのときのギタリストは佐橋ではないかと思います。昔、カシオペアのコンサートでも、隣の人は双眼鏡を貸してくれました。これも、一体感からくる共通の、関わりのある人間と思ったからでしょう。その時私は初めてカシオペアのコンサートに行ったにもかかわらずです。もっとも、向谷、野呂のコンピはさすがだと思いました。
 コンサートが一体感の場であるなら、花火大会もおなじイベントであり、それは光のコンサートです。そこには、表現媒体としての差はありますが、見ている方は一体感を味わう、時間と空間を味わうことになります。
 隅田川の川開きとしての意味を持った花火、それが、昨日は夏の終わりを意味する花火として打ち上げられていた、そう思うと、花火というものは、季節の変わり目という意味をもち、そして、その変わり目を実感するという、共時的な一体感を味わうことなのかもしれません。
 それは、家族での旅行や余暇、遊び、食事と同じものだと思います。

(写真は今年の隅田川花火です)


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