鴛鴦呼蝉庵日乗
  2002.10.07 傲慢
 人に知識を伝授する、これは簡単にできること。でも、人の考え方を導いたり、気力を起こしたり、生き方を学ばせたりすること、それは難しいものです。自分で何かしようとするとき、自分の価値観、位置を考えて行うため、アドバイスしようとしても、それはお節介と紙一重だからです。どこまで言葉が届くか。それは結果を見ないとわかりません。話を聞くことはできても、それで相手の意識を変えることは、傲慢なことでしょう。もし意識を変えることができるのなら、それは洗脳に近いかもしれないから。
 話している相手が、実は自分の意見をいやいや聞いていたらそれはかなり怖いこと。だから、聴いてくれる人は、自分のことをとりあえず受け入れてくれるという信頼があって話せるものです。かといって、それをこわがって、話すことをやめるのは、相手に自分を合わせてしまうので、自分を曲げてしまう、哀しいことです。だからこそ、言葉を吐き続ける。そうして、それが失敗しても、それも自分として考えることになる。もちろん、日々反省や後悔は常にあります。どこまで自分の言葉を相手に投げかけられたか。そして、それは相手にとって本当によかったことなのか。傲慢なことなのですが、でも、それを信じないと、自分の価値がない。話してもそれが気休めになってしまっても、それでも話すしかない人は、話し続ける。まあ、話すことと聞くことが商売なので、それはそれでしかたないことでしょう。
 だからこそ、100与えて、1つでも相手が気に掛けて、それで楽になるのならいいのでしょう。一日一つで、100日。それまでひたすら与えて、そして迷惑になっても、最後に一つ相手に届けばよろしいと。一つ届いて、99だめでもいいのです。そうでないと、何もできない。無力であるからこそ、何かをしようとするのです。しかし、待つこともあります。言葉は相手の関係によって、やりとりできるもの。その時期を待つことは自分の言葉を磨く時間として有効に使わないといけないのですが、それでも人は、まっすぐにはなれない。何か客観的に見ようとしても、バイアスが掛かってしまい、真実を観られない。ただ、その時に思いが強くて、客観的に見られない。そういうものでしょう。

 この日乗、意外と読まれているので、ちょっと書くことをためらいがちですが、でもまあ、本音の30%は言えたらいいのでしよう。クローズの日記なら、自由に自分の意見を表出できる。それは、紙に書いた日記とは違って、どこかで誰かが発見するかもしれませんが、しかし誰かはわからないでしょう。だからこそ、その匿名性の公開制を楽しむのです。でも、一番のよいところは自己を表現する行為です。それが大切。

 いや、難しいですね。表現しようしても、自分の表現を理解してくれることはまずないから。だからこそ、表現し続けるのですが。再び、駒田信二先生のことばを思い出しました。「書き続けて死ねばいいのです。」 。書くことで、自己を表現できる。その考えは変わりません。だからこそ、何か書くことを求めていたのでしょう。では、なぜ最近になって、頻繁に更新するのか。それは、今までの状況を変えたいから。何か伝えるもの、それは、自己を表現することで、自分の価値を求めることなのでしょう。

 昨日、やもりが窓の外にいました。以前、二度ほどやもりが死んだのですが、その後にいやなことがあったので、久しぶりに見かけて、よろこんでいます。いやなことが起こる前に、家では前兆があります。けがしたり、あるいは、家のどこかを傷つけたり。今回のやもりは、どうなのでしょう。いいことがあればと思います。

 私は、私でありたい。だからこそ、私の価値を探したい。それは永遠の課題です。私は何を残せるのか。最初の目的を果たせてのか。逃避することなく、進めたか。学ぶこと、教えること、アドバイスすること、限界と可能性と、その相克。そんな中で傲慢な自分は、不出来に悩むのであって、むしろ、他人は他人という考えの方が楽になるのですが。つまり、自分のライフスタイルと、ライフサイズなのですよね。スタイル、それは最近の私のテーマでもあります。自分の在り方のスタイル。それは何か。きっと、わからないのでしょうけど、それでも自分らしさを求めて、自分の中のコロニアルを打破しないといけません。自分の考えの構造がいつまでたっても、コロニアルだからです。 

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