鴛鴦呼蝉庵日乗
  2002.10.12 話す
 すっかり秋らしくなって、風邪気味となりました。今年は季節の変わり目が例年よりも10日程度早い気かします。10月で、もう11月直前の気温ですから。

 早稲田の学会は参加できませんで、別の懇親会に参加しました。お三方と、あまり長い時間ではないのですが、お話しして、いろいろ気づかされたことがありました。それぞれ人生を楽しんでいるようで、お子さんへの愛情を感じられました。特に、「子供をもってよかった」という一言を聴いて、ああ、この家庭は大丈夫だと思ったしだいです。このお三方、社交的で話の話題をうまくもっていく能力に長けています。立ちながらの話しはなかなか話題がつづかないもので、いろいろ話したいこともあったのですが、けっきょくありきたりのことしか言わなかったですね。話題を用意してもその場の雰囲気があって、その話題に乗っているうちに、話したいことを忘れる、そういうことはよくあります。他の方と話して、いろいろ意義有るようでしたから、それでよかったと、いい会であれば、一番です。次回は11月です。少し違う話ができたらと思います。

 その会で初めて話す人がいて、唐突ですが、子育てのようなことを話しました。そのまえにいくつか尋ねたのですが、どうも、話が食い違う。以前より子供と親との間に隙間があるように見えたので、気にはなっていました。私と話しても、正しく聴き取れていないのです。こういう方は自分のいいように解釈するから、話すときは要注意です。話さないのが一番いいのですが、話してしまったものは仕方有りません。人間には知らない方がいい場合もあって、言うとお節介になることあります。だから、そのまま見ていても、知っていても知らぬ振りをするのが一番。でも、話してしまったから、そこはお節介の気持ちが顔を出して、さりげなく気づきができる程度に抽象的に伝えたのですが、やりは伝わっていないリアクションでした。世間一般の話しを持ち込んだのですが、自分のこことは知らなかったようです。そういうことはよくあります。いつかお子さんの口から聴くのでしょう。お子さんが何をしていたかを。それまでは普通に幸せな家族なのでしょうから、それはそれでいいのかもしれません。知ってしまったことのいやな気持ちというものがあります。知らなければそれでいいというもの。だからそのままにしておきましょう。きっとその人は家に帰ってから、私がつまらない話をしたと行って笑い話にするでしょう。それはそれでいいのです。話題として提供しただけだから。

 知らない方がいいというのはよくあります。ある人がwebに書いてました。巨大な掲示板があって、それに書かれている自分のことを読んで、心理的にダメージを受け、体調を崩してしまう人がいる。それなら、その掲示板を読まなくていいのではないかと。確かに読む必要はないのです。それで体調を崩すようでは、人生もったいない。知らない方がいいというのはこの例です。
 信じていた人が影で自分のことを悪くいう。そのことを知ってしまうと人間不信になってしまう。でも、多くの場合、その場では話を合わせてくれますが、陰で何を言っているかわかったものではありません。そんなものです。だから、その「場」での話しであって、継続性を求めてはいけない。親子であっても、他人であっても、それはありうる話。だから、信じられる人がいたら、とことん信じるといい。そうでないと、つまらなくなりますから。
 日記が紙からwebの形式になりつつあるといいます。若い人も携帯からwebで日記を付けることがあると聞きました。紙だと家族に読まれるかも知れません。webだと、いつか消えますが、それでも誰かがのぞき見する可能性もありつつ、でも、匿名性が高い。でも、そこには普段話さないことが書かれているでしょうから、それを読むことは、知らなくてもいいことを知ってしまうことです。公開されていない日記を読まないようにしているは、知らなくていいことは知らないままでいようという気持ちにすぎません。そういうのもネットの倫理というのではないかと思います。

 以前、BBSで誹謗中傷を受けて、ストーカーまがいのことがあって、仕事をやめて入院した人をしっています。その方とは少ししか話したことがありませんが、今でも雑踏では怖いといいます。しらなくてもいい、匿名の他人の攻撃で心身共に被害を受けた人です。批判というのは、客観的な証拠があって、そして、実名で行われるものです。そのための思考を伸ばすことは、アメリカの教育でも日本でも行われること。ただ、そこには批判される側の心理的な問題までを教育しない。だからこそ、アフターケアーの問題が残る。心的障害の対応の問題点です。知らなくてもいいことを知ったことへの対応。そのショックたるものは、現実逃避に走るといいます。現実逃避ができると、成長する。その成長過程を大切にしたい。見守っていくことなのでしょう。それは、自分の問題でもあると思います。

 わかり得ない人への気持ちを理解することはありません。ただ、そういう人と社会の中では存在しているので、どうても、話すこともありますし、接触することもあります。だから、その社会的な範囲でルールとしてつきあうこと、それが「共生」だと思います。一緒に生きるのではないのです。社会の共通部分において、生活していくこと、そういう意味での「共生」があっていいと思います。小さな集団でもそうです。自分勝手は自分のレベルで勝手にすべきです。社会のレベルでは共生するのです。

 誹謗中傷というものでなくても、うらやましがられて、いろいろ邪魔をされることはあります。最近でもいくつか直接会ったことがない人がいろいろ私のことについてあらぬことを言いふらしていると、教えてくれました。まあ、それはそれでいいのです。表現の自由だから。結局人の真実というものは、科学的にはあり得ないのです。すべては相対的。その中で、相対的な共通の約束事で生きていく。社会ではそうなる。信じる行為、というのは、社会的な信じる行為で、個人的な信じる行為ではない。個人的な信じる行為はプライベートで持つべき事なのです。深くはいる時は、個人のレベルで、深くそして科学的に入るときは、公共性で。だからこそ、教育の場では公共性のもつ話しということなり、個人的なことは控えるのです。個人というレベルは沈黙してそして思考する。成長するそういう過程ですから。だからこそ、公共のレベルで話し合えるといいのです。そしと話すことのみならず、話すことで自分の考えを深めていく。そういう過程が大切なのです。話すということは音声言語の表出ではなく、それによって思考することだと考えています。思考したことを伝えるのではないのです。話すことで、話しながらも思考し、話したあとでも思考する、そういう思考の過程を私は、話すことだととらえています。だから、話題はどうでもいいのですが、話したあとの充実感が大切であると、それが評価であると思います。

 私の考えが100与えて1つ相手に得るものがあればいいという主義ですから、話さないことには何も成らない。そう思います。もちろん、話せない相手もいます。話す機会がない場合もある。そういう場合でも、少しずつ、行動や仕草やいろいろな手段で伝えることがあるでしょう。伝えること、伝わること、そして響くこと。いつかどこかで、きっとわかってくれる、そんな幻想を抱きながらも、話をしていく。さて、どこまで伝わるか、毎日、その連続です。評価は他人にはないのです。自分です。現実逃避という名の置き換えでなく、現実逃避という一つの名目の中での自分の本心。それについては次回。

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