2002.11.16 孤独
 再び孤独について。人は誰でも孤独に感じるときがあります。それは、大勢いても、一人でいても、楽しい時の後に、嬉しい時の後に、哀しい時の後に、怒りに燃えた後に。孤独なときは、心さびしくなってしまいます。しかし、そうはいっても、他人に対して冷たくなったりします。自分に対してイライラするからです。他人に自分を理解してもらいたいという意識が働き、その通りにならないと、思いにならない気持ち悪さが働くこともあります。寂しさは人がしても、いなくても結局は癒されることのないもので、それは生きている限り、理解されることのないこと、他人を理解できないように、他人は自分を理解できない。その根元的な問題に突き当たるからです。たとえ、肉親であっても、個が違えば結局同じ気持ちにはなれません。同じ空間と時間を過ごすこと、その共通性です。
 その寂しさがあるからこそ、個人はそれぞれ抱いている感情に差はあるとしても、自分やそして自分をとりまく周囲にある人々、そして全てを愛おしく思いのでしょう。それゆえ人は人やものに愛着を沸かせるのです。ただ、その時に距離を保つのが難しくなります。距離か近いと、一方的な気持ちになり、相手の重荷になってしまうからです。尊重するということは、理解し得ない世界での尊重であり、本当は距離を置くだけのことなのです。相手の親身になること、それはできるか、永遠の課題ですが、理論では不可能でも、実践では感覚的に今までしてきたように感じます。それは、こちらの一方的な思いかもしれません。でも、何かしたいという意識なのでしょう。

 自分の限界について、数年前から感じていました。いや、最初は小学生の時だったのでしょう。そして高校卒業の時、自分の才能について見つめて、それであきらめたことがあります。あきらめたことは、今まで何度もあるのですが、進路や生き甲斐についてあきらめたのはつらいことです。でも、それは自分で判断したので、結果それでいいと思います。でも判断するということは、かなりさびしいことです。自分をあきらめることになるわけですから。それで新しい道に進めればいいのですが、それが後退と思えてしまうと、かなりつらいものです。

 終わりの時を楽しく迎えられたら、一番幸せかもしれません。終わりが醜悪だと、それは自分の心が醜悪ということになり、つらいことです。それを乗り越えることが出来るかかが、近代でもありますし、私の考えるポストコロニアル、ポストモダンだと思います。

 今日は、すべて、悩める人に捧げます。もちろん、私もその一人に入ります。というべきか、自分に言っているかも知れません。

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