2003.01.06 休養
 昨日まではなんとか通常でしたが、今日は抑えてきた風邪が出てしまい、いろいろとすべき事をキャンセルしました。一日休むついでに、家のことを少ししました。食事もお雑煮は今日で最後かと思いますが、明日の朝の分を残して終わりです。
 親戚から餅をいただきました。例年少しいただくのですが、今年は二袋とどうみても食べ切れません。餅米からついた餅ですが、数年前から機械で搗くことになったそうです。それでも米の感触が残っていて、のびがないのが特徴です。焼くと周りがかりかりとして、中身は温かく柔らかいというのが不思議な感触です。一つだけ難があるとすれば、何も防腐剤も入っていませんので、冷暗所に保存しても黴が3日で着いてしまうことです。生えるというのが正しいのでしょうが。それほど何も入っていないのです。ただ、無農薬とはいきません。餅米はうるち米に負けてしまいますので、農薬は使われています。その事はしょうがないかもしれません。ただ、何も入っていないものはすぐだめになるという典型でした。
 精神的に気分一新したはずなのに、浮き沈みがあります。今年は厄年ゆえに、静観するのですが。でも去年の新年のような精神的な不安定はありません。意欲は去年よりあります。今年は勝負です。この10ヶ月で節目をつけたいと思っています。

 音楽の幅を広げたいと思う意識は去年からありまして、古楽、ピリオド演奏を短期間でくぐり抜け、ケルト音楽を楽しんで、これからは現代音楽、一時期効かなくなったロックに走ります。長いもので、ずっと聞いているバンドはもう22年となりました。それに加えて、一昨年からロックの現在を聴くようになりました。BOOWYの時に聴かなかったので、それから確認するというのが正しいかもしれません。
 間に合ったとう感覚があります。私の場合は何でしょう。白鴎さんでしょうか。東海林太郎さんもそうでしょう。記憶の中の浅間山荘、月面着陸でしょうか。いろいろなことを記憶しています。それらが間に合ったという感覚を生みます。昔に生きているのではないのですが、昔の音を再現しようとCDを借りまくっていますが、同時に現在のもの、性格には1980年代の終わり、私にとって青春時代のはずだった時、暗黒の時代だったも言えますが、その暗黒の時代、未熟な時代で聞き逃した、なぜか流行に背を向けていた時に聞き逃した音楽を聴きたいのです。
 順不同です、候補を挙げておきます。漏れもありますが、一応一覧です。まだ聴いていないものです。

BOOWY、BUCK-TICK、X、ZI:KILL、LUNA SEA、L'Arc-en-ciel、VOGUE、GLAY、THE DEAD POP STARS、Peicillin、ROUAGE、Laputa、MALICE MIZER、La'cryma Christi、D≒SIRE、La:Sadie's、MIRAGE、Dir en grey、Pierrot、Raphael、Psycho le Cemu、MUCC

 全てを聴くことはできないでしょうが、この中からいい曲が一つでも見つかればと思っています。まずは明日、レンタルCD屋に行って、いくつか借りてこようと思います。当分の間借りる予定のCDは次の通りです。はたしてどこまでこれが続くかわかりませんが、飽きたらその時点で中止しようと思います。

L'Arc-en-ciel「Tierra」「True」、「Heavenly」
BOOWY 「THIS BOOWY」
D≒SIRE 「週末の情景」
deadman「SiteofscafFold」
Dir en grey「GAUZE」
JILS 「SAD SONGS」
LUNA SEA 「PERIOD〜THE BEST SELECTION〜」「IMAGE」「MOTHER」
MALICE MIZER「Voyage」「merveilles」
Pierrot「HEAVEN」
ZI÷KILL「CLOSE DANCE」

 いずれもまだ聴いたことがないものばかりですので、当たるも八卦当たらぬも八卦ということでしょうか。私自身、こういう行動を起こす自分を遠くから静かに暖かく見守っていきたいと思います。いつになっても自分の先行きが見えませんから。

 テレビをつけたら、シャマラン監督の「アンブレイカブル」をやっていましたが、その中の台詞で、生きていて怖いことは自分の存在理由がわからないことだ、といのがありました。確かにそうです。自分の存在理由が、存在価値がわからない時、他人から無視されてしまうこと、他人が自分を嫌悪すること、他人が自分を必要としないこと、それらは全て自分の存在理由、存在価値を覆されてしまいます。いや、価値自体をなくしてしまうことにつながります。それゆえ怖いことです。ここ数年の私もそうでしたし、若い頃の自分もそうでした。若い頃はそれを抜けるのに4、5年はかかったでしょうか。ある意味、私は若い頃にすでに更年期障害のようなものを経ていたのです。それで全て乗り越えたと思っていたら、昨年、実際には一昨年の春から再び頭をもたげてきたのです。それが今の自分なのでしょう。
 ただ若い頃と違って、今の私は時の力を借りることなく、自分の力で乗り越える意志があります。せっぱつまると取り組む性格ですし、触発されて動きますから、いろいろ情報を入れて、触発されるようにしたいと思います。

 ふと、先日の墓参を思い出しました。墓に花を供えるとき、花束の根本、いや茎の本にある輪ゴムをそのままはずさずに供えます。その時に茎の本の方を3センチほど折ります。そして供えると花受けに挿しても花が動くことなく、止まります。風でゆらぐことなく、そのままです。日持ちはどうかわかりませんが、数日は供えても凛としていると思います。
 根本で工夫すること、それは、自分の生き方のもかかわるかもしれません。どういうことかはまだ説明し得ませんが。

 南方熊楠について読みたいと思いました。なんとなくです。こういう感覚、大切にしたいと思っています。

Copyright 黒川孝広 © 2003,Kurokawa Takahiro All rights reserved.