2003.01.05 評価
 新聞に一橋大学の授業評価を公開するとの記事がありました。項目については後日、検討したいと思います。授業評価を公開する目的は、授業の向上です。基本としては教師は自らの努力で授業を向上していくことが望まれますし、当然すべきことでしょう。授業評価をしても公開しないと効力がないため、その評価を無視することもあり得ます。そう考えるのは、性悪説だからでしょう。そういう何も効かない教師がいるから、授業評価を公開することになります。それで授業が向上すれば、大学としても学生の学力向上につながるからと考えたのでしょう。
 ただ、ここで一つ問題があります。授業評価は、あくまでも受け手の判断であり、第三者から見た判断ではありません。受け手には知らないうちに身に付くこともあります。それを知るには数年後ということもよくあります。私もよく突然のスピーチを導入することがあります。その評価はほとんど悪い。「もうやりたくない」という声が多い。ところが、卒業して大学に入ると、突然に意見を求められることがある。その時に躊躇せずに答えられた。あのときの授業は今役にたったという声も伝聞ながら聞かれます。つまり、その時には自分の能力の向上を見とれられずに、後になってその能力を活かす場面で初めて知るのです。それを考えると、教育の結果は、即効性のあものと、時間かかかった後に結果が出るものがあります。それゆえ、単に授業評価のみで評価するのは疑問です。
 もう一つが、評価する学生の主観性です。学生のレベルに合わせると、標準的レベルになります。しかし、難しくすることで、閾値を超えます。それゆえ、多少難しい高い設定の方がいいのです。理解できるのは6割でも後の4割に学習意欲を喚起できれはいいわけです。学習意欲の喚起は自分の問題であり、授業の問題ではありません。授業分析という手法がすでに教育学にはあるのですから、その道の授業評価をまずすべきで、それと学生の評価を併用すべきです。学生の評価をなくすのではありません。否定でもありません。有効理由できるものです。しかし、見せしめとしてのみあるのなら、意味はないのであって、本来あるべき授業向上のために、評価のみならず、その評価の結果から、授業アドバイスが必要です。授業コンサルタントというべき方法によって向上しなければ、意味はありません。結果のみ評価すること、それを公開することは、いわば話題の提供のみとなってしまうおそれがあります。それゆえ、学生の声に耳をかたむけ、そして授業を向上する手順を考えれば、評価とコンサルティングという二つの機能を同時にしないといけません。

 まったく別次元から考えると、教師の評価もさることながら、大学の労働条件評価や、学生の評価もこの際に公開したらどうでしょうか。教師をランクづけして、そして昔の帝国大学のように学生も評価をランク付けして公開する。そして、教師も大学を評価する。つまり、評価する側と評価する側がお互いに作用する方法です。そうなれば、お互いが評価の意味を知るわけですから、軽はずみな評価はしません。そして、お互いを向上するアドバイザーも用意して向上していく。それが日本的な共同向上、ある意味ではTQC的な方法だと言っていいのではないでしょうか。

 中学や高校で選択授業が行われていますが、年々減ってきていると聞きます。どの講座を選択していいか迷う生徒が多くなり、モデルを示すとその通りに選択するからです。選択するということは、道をしっかり見極めているからであって、選択能力があるかないかは、本人の学力と関係ありません。ただ、その時に選ぶ材料があるかないかなのです。その材料があれば、選択できますし、材料が少なければ迷います。選択することは他との比較です。比較するということは経験です。行動、活動の経験が少なくして、選択するのは難しいことです。それゆえ、選択授業が減って、基本的な授業に変えていきます。これは、当然の流れだと考えます。選ぶことは、人生でいくらでもあります。基本から入り、選ぶ能力がついたところで選ぶというのが一番いいのではないでしょうか。

 私の勤務先でも評価があります。今年はたぶん悪いでしょう。すでに自分でそれは感じています。あとはどう変えていくかです。今月中には結果が出ますから、その結果分析もここでしてみたいと思います。誇る意味でなく、評価をどのようにすればよいのかという実験的な意味があるからです。

 今日も忙しくて、短時間でいろいろこなしてきましたが、自分のやるべきことが最後に残ってしまい、明日に繰り越しです。正月早々からあせってきました。時間が足りない...。

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