2003.02.24 勉強は感情 | |
勉強は理性でなく、感情でするものだというのは、最近の私の考えです。理性であるなら、あるいは勉強がだれにでもできるという技術があるなら、だれでも成績は伸びますし、同じように技術を習得できることになります。そうなれば、大学受験のランクということ自体なくなります。むしろ、ランクがあるということ、他人と自分と勉強の度合いが違うと言うこと自体が個性なのですから、そうなると、勉強というのは、個性の一つであって、そして、理性では捉えることのできない、感情としての存在であると言えます。 歯医者通いも2日目。まだ、膿包が小さくなりません。化膿止めを飲んでいるのですが、そのせいか、体調に変調がでている気がして、精神的にも不安定になったりもします。いや、思い詰めることではないのでしょうけど。 インターネットでいろいろ情報を集める私にとっては、サイトの閉鎖はなかなか手強い敵です。情報発信者がその力を失ったとき、その無力感は読み手にも伝わります。とくに表現することは、誰かに反応を得ると思っていると、反応がなくなると、表現意欲が減退していく。それが実は怖いのです。だれか不特定多数が観ているのに、その観ていることを尊重すればいいのに、反応がないからととって表現を止めると、それは表現が他人に左右されてしまうことになり、個性でなくなります。だからこそ、表現し続ける必要があります。表現していくことで、何かが見えるてくる。何かは不明だけど、それは自分の解釈だと思います。 だれだって、自分の悪いことに気づかない人はありません。だから、落ち込むのです。自分の悪い点、それを救えないから、いや、その悪い点が本当は長所なのに、そのように感じられないこと、それはまだ見方が狭いのです。広げるとは、何か価値観の変動、感動などがあってはじめてできることです。 唄に喜びよりも、悲しみが多いのは、そのせいかもしれません。本当はそうしたくないのに、そうしてしまう自分がいることをどのようにして整理できるか。自己の殻を破ることでしょう。何も考えないで。 |
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