鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.03.24 隠すこと

 私は人と話すときに、自分を隠して話すのが見えてしまうようです。そのことの指摘を今日、二人の人から言われて、同じ日に同じようなことを言われて、そうなのかと思った次第で、それで少し話したものの、自分の置かれている状態について、説明を試みても、結局は伝えられなかったのです。それは、相手が理解できなかったのでなはくて、私自身が伝えていないことに気がついた。宴曲な比喩表現が多くて、結局本質については言わなかった。なぜか。理解されないことを理解させようとすること自体が意味がないので、つまり、虚構の関係を虚構のままでいればいいのに、そこに虚構でない実際が入るとややこしくなる。相手は自分に対して、虚構で見ているのに事実ではないことを示すこと自体が、無意味である。それが事実。
 どうにかしても、結局は、自意識の変化しか改善することはありません。だけど、本質は自分の価値観なのであるから、それを改善しないことには始まらない。それがかわっていても、現状の意識を変えていないことが問題なのです。

 本質は、見抜くことでしょう。自分の価値観で、事実を自分に引き込んで、見抜くこと。それがないと、流されてしまう。情報という波にのまれてしまう。情報に影響されるのではなくて、情報を発信し、あるいは加工し、受容し、新たなる知見を創り出す、それが引き込むことです。発展性、あるいは成長でしょう。人は誰でも理解される存在ではないので、これからどのようにして生きるか、そこにかかっているのでしょう。

 人の文章を読むことは、自己の発見です。それができれば次へ発展できる。しかし、自己の中の枠組みしか存在し得ないことは、悲しいことに自己の存在を崩すことです。それに気がつかないで、他人が原因で苦痛を感じていると思い違いをしてしまうことがあります。そういう人を見ると、悲しい行き方をしなくてもいいのにと感じますが、それもその人の個性かもしれません。いくつか手を出そうとしても、意味がないことがわかっているので、放置することにしました。なぜなら、私でなくてもだれかが取り組めばいいからです。役割ということがあります。自分でなくてもいいことなら、その力を別に向ければいいのです。

 集団から去る人と話をしました。よく眠れるそうです。12時間ぐらい寝ると、気分がいいらしいですが、集団に入ると、眠くなる。だから、休む。その繰り返しです。急ぐことはありません。ゆっくり自分のペースでがんばれば、次への発展があります。ゆっくり自分の行き方を、そのままを、自分を好きになっていくこと、そこに可能性があると思います。もう、会うこともないでしょうが、がんばって欲しいですね。

 何年ぶりに、模造紙に看板を書きました。筆遣いを忘れてしまい、うまくないのですが、それでも、おもしろかったですね。作ることはいいことです。

 明日の帰りは深夜で、連日の疲労が取れません。


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