2003.04.20 対象への意識 | |
日記なるものを記すことはいいのですが、読み手が特定されていくと、どうしても、書き手は意識して、書く内容を制限してしまいます。いや、しないとしても意識してしまうところで、その人の作品とは他人への意識はあるとしても、特定の人に読まれることで、意識して抑えてしまう。それは、作家でも当然あることなので、不思議はないのですが。意識するのは当然としても、意識させてしまうことは、なかなか心苦しい。それゆえ日記なるもの、特にwebでは他人の影響力を考えるから、書くときには注意を払うことになります。それによって、本当のことを書くことができなくなるとすると、日記はやはり虚構の産物となってしまう。よって、読み手と書き手の需要と供給の関係が成立する。つまり、物語としての日記があると言えるでしょう。 対象への意識として、もう一つ考えられるのが、他人への意識です。今までとても親切にしてくれた人がいても、あること、自分に対して不利益なことをした人がいると、その人への嫌悪が生じる。そして、今までの恩の一切を忘れて、その上、ありもしない中傷を加えたりする。そういうことはよくあります。私もよく体験しました。また、他人へのそのような動きを何度も見てきました。最近もそういうことがあって、今まではとても親切に思って好意的だったのに、あるきっかけで、その人に対して嫌悪を生じる。そうなると、自分だけでなく友人や家族にまでそのことを言って、結局まわり全部がある特定の人への嫌悪を生じてしまう。 今は二つの学会で忙しくて、なかなか時間がないのに充実している、それは、人間関係の煩わしさから逃れて、自分の力を発揮する時があるからでしょう。深入りして自滅する前に自分の力を発揮する場所への転向をはかる、それが生き方として穏当な気がします。もちろん、障害があるから、自分は成長する。それは、障害を乗り越えて次へと生きるからです。障害は自分にとっていやなものではないのですが、それが自分に何も生まないのなら、それは障害というより、無駄なものだということになります。それは意識の問題なのですが、そこまで自分を曲げることはあり得ない。そういっても、情報はいくらでも錯綜し、曲がって伝えられるから、それを鵜呑みにしていくことはしないとしても、他人はそのように意識していくのでしょう。他人の口に蓋はできません。あらゆる曲解であっても、それを否定することに費やす時間は無駄なこと。勝手に言わしておくしかありません。そういう人はいくらでもいるのですから。 飛騨高山出身の人から濁り酒をいただきました。本日、賞味。なかなか美味。 田近先生の研究室で、戦後史の研究会に参加。いや、勉強楽しい。これで体を崩しても惜しくはないですね。 |
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