鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.07.04  タイミング

 そろそろ限界ですね。昼にちょっと隙を見せたら、うとうとしてしまいましたから。どうも目があきません。目やには出るは、涙目になるはで、困りものです。
 そんな中で、今回の眠気覚ましはキシリトールガムでした。ガムは普段噛みたくないのですが、この際しかたありません。口に入れて捨てるという発想がどうもよくないのですね。みかんを食べるときもそうです。食べてしまうか、身を出して食べるかしないと、歯でしごくように食べるのは、好きでありません。でも、そのくせ、ぶどうの場合は、かまわないというのも、実は定見がないのですね。いいかげんなのです。感覚的であって、どれが正しいということではなくて、どれも正しく、そして他人から見たら、どれも間違いなのでしょうね。正しいというのは、相対的だから、自分の正しさは他人から見たら正しいかどうかはうがかわしいものです。

 やる気が出ないというのは、どういう現象でしょうか。やならければならないけど、せっぱ詰まらないとやらない。また、せっぱ詰まってもやらないということがあります。最後の最後であせって、結局うまくいかない。それで反省しない。それはなぜか。それで自分の進路や生き方に間違いを見つけるというのは正しいかどうか。よく進路選択でありますね。たとえば、試験がせまっていても、前日も余裕でテレビをみたり、漫画をみたりしてしまう。それで、結局思ったより成績が悪くなる。その余裕はどこから来るのか。それも問題ですが、その結果で、自分のその講座や教科の内容が向かないと思ってしまうことがあります。成績が悪いのは努力が足りないのですが、その努力不足と能力不足は違います。ある時に開花することもあれば、まったく開花しないこともある。それは誰にもわからないタイミングです。
 でも、そのタイミングを作ることはできます。いろいろな知識や経験をしていくことで、自然と増えていくことです。私もそうでした。中学の頃から授業では全く使わない知識ばかりを得ていました。知りたいことはいつも授業とは違っていたのです。だから、授業はとてもつまらなかった。しかし、それがいつの間にかいろいろな総合的に絡み合う知識になってきました。文化研究という視点がありますが、それに近いいろいろな状況が見えるようになってきました。もちろん、全てを記憶しているのではありません。ただ、どのような観点から見ていくかなどの広がり方が少しかわってきたような気がするのです。そうなると、タイミングは自然に増えてきます。そのタイミングを計るにはあせらず、今したいことをしていくことですね。
 本題に戻ってやる気を出す方法というのはありません。ただ、期待される、信頼される、何か目標が実感としてかわってくるとやる気になります。それまでいろいろな知識を得て悔いこと、体験していくことではないでしょか。きっかけは意外なところにあるかもしれません。今していることが無駄のように見えても、実は無駄でないということもよくあると思います。ひたすら、その時期を待つこと、そのためには行動することですね。
 勉強で言えば机に向かう時間を増やすと、そのうちにやる気になることがありますね。机に向かうこと、図書館に行くこと、それは必要なのです。
 結局の所、結論はないのですが、じっくり時間をかけて、自分に見つめるのもいいと思いますね。それしか解決策はないと思います。あるいは、誰か信じる人が出来るとかですね。それで目的意識を持つなどの方法しかありません。方法は策でしかなく、実際とは異なりますから、本当の所は何がいいかはわかりません。

 昼に自動販売機で、飲み物を買おうと思ったら、後ろから、「牛乳を買うよ」という声が、ちょうど牛乳のボタンを押す前でした。「よくわかったね」と言ったら、笑っていました。多分、飲み物のリストの中で、健康的なのは牛乳だけでしたから、そう判断したのでしょう。それも近未来予想ですね。そういう予想も先見性だと思います。総合的な判断力ですから。

 煎茶のとは別の茶筒を買おうと思ったのですが、煎茶を入れているのと同じものしかありませんでした。あとのは和紙仕立てで、どうも好みではありません。別のになると、高くなりますし、どうしたものかと、思案中。月曜日には買いに行く予定です。

 久しぶりに大型本屋に行って、CG関係の図書を探しました。雑誌コーナーに久しぶりに行くと、いろいろな雑誌があって、以前にはなかったものばかりでした。時間があれば、順にみていくのですが、省略。結局の所、いい本はありませんでした。ただ、サブカルチャーコーナーで、アニメ関係ではガンダムの本が圧倒的にありましたね。むしろ、アニメに関する総括的な文化研究が見あたらないのが不満。アニメ塗りのいい本は少ないのですね。

 アニメの世界もセル画でなくデジタルになりつつあります。そうなると、アニメ塗りは必要なく、水彩画でもいいのですね。それでもアニメになります。マンガとアニメの境界がなくなり、それぞれがデジタルになりつつあるところ、残るは印刷するか、どうかですね。マンガもデジタルのものもありますから、そうなれば、より境目はなくなります。そうなると、マンガ研究もアニメ研究も重なりつつありますから、それを総合的に文化研究として位置付けられないかというのが最近の問題意識。

 浜本研究室での研究会。遅れて参加。しかし、発表者の内容は理解できず苦戦しました。コミュニケーションとは、私ももう一度調べる必要がありそうです。帰りは一人で、11:20に退出。研究室の明かりはついていますが、廊下もキャンパスも人がいない大学というのも、なかなかいいものです。それでも正門前は学生のたまり場ですが。サークルの練習場所ですね。かなりうるさいですが。

 図書館にいく時間がありませんね。辛い。本屋の借金もあって、古本もしばらく買えません。来週には本屋に7万の借金返済をしなければ。
 そうは思いつつ、秋には、Painter8を買いたいと思っているのです。欲張りですね。

 ここでは社会問題や政治問題、愚痴はしないようにしています。自己規制ですね。というのも、いろいろな立場の人がいるから、発言が偏るといろいろ自分でも問題を整理できないからです。あるいは、愚痴を言うと、自分の問題と捉えてしまう人がいると、その人に悪影響を及ぼしますし。もっと、この文自体が悪影響だと言えば、それは見る人の自己責任と言えるでしょう。見なくても言い訳ですから。
 でも、みたいという意識はありますね。怖いけどみたい、そういうお化け屋敷的な問題。見ても何の役に立たないのに、見る。時計や天気予報を見るように見る。ジムキャリーの「トルーマンショウ」のように、そこに存在してるからいいということあります。
 まあ、ここに書いている時は、私は生きていることになりますからね。更新しなくなることは、死んだことにはなりませんが、その可能性はあきにしもあらず。その点では生存確認的な意味合いもあります。
 では、私は。それはご飯を食べるのと風呂に入るのと同じです。日課としてしまえば、そうたいしたことはないのです。書いたことも忘れますしね。そのうちに。そうやって時間は過ぎてゆきます。過ぎゆきものにあらがう必要はありません。ただ、まかせていく、そして任せていく中で、自分のことばで書けばいいのです。その時の自分の表現になんのたためらいもないはずですが、でも、ためらいはありますよね。自信はなかなかつかないから。

 矛盾しているのも、それも正直な自分なので、それを見ないと矛盾は見えない。でも、矛盾があるから、人間らしいとも言えるのです。

 明日から仕事が忙しくなります。月曜日にはなんとかきりをつけたい。忙しい人、期末試験の学生・生徒のみなさんもがんばってください。採点している人は腱鞘炎になることを恐れて、赤いペンを走られるのですから。それも幾何学的でない○や×で。

 本日購入した本。
○野地潤家『国語科授業の構築と考究』渓水社 8000円 4-87440-752-8
 野地先生のご著書で、いままでに発表したものをまとめたものです。授業研究では2冊目とのこと。明日からは忙しいので、もうしばらくしてから読みます。
○『I/O別冊 簡単 Photoshop CGテクニック事典』工学社 ISBN4-87593-474-2
○『I/O別冊 美少女CGをPhotoshopで描く本』工学社 ISBN4-87593-460-2
○『I/O別冊 デジタル美少女CG制作テクニック集』工学社 ISBN4-87593-371-1
 アニメ塗りの本を探したのですが、この本の一部にしかありません。ほとんどが水彩画ですね。角川にもあるらしいのですが、見あたりませんでした。アニメ塗りはもう意味がないのかもしれませんね。それにしても。CGの本は、どうしてこういう傾向、「美少女」としかないのでしょうか。美少年だっていいと思うのですが。そういう場合はデシコミの本をたよりますかね。

 4:40就寝。7:30気象。2:50睡眠。そろそろ早く寝るようにしたいと思います。


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