鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.07.08  翌日

 祭りの後の寂しさというのは、いつの時代からも言われることです。楽しいからこそ後が寂しくなる。翌日というのは、寂しいものです。楽しい余韻もありながら、楽しさのあった後の寂しさですね。早稲田の学会もそう、楽しい分だけ翌日、700人も集まった会場は何もなかったようにいつものようですし、私もいつものように仕事をしていました。楽しかった翌日は、元気いっぱいにがんばれるのですが、ちょっと息を抜くと、寂しくなりますね。それは、楽しさは終わることを知っているからでしょう。「ぼのぼの」でぼのぼのがすなどり猫さんに、「楽しいことはなんでおわってしまうの」というような事を質問します。その場面を思い出しました。それをつきつめると今だけを大切にする刹那的な考えになりますね。今がよければということ、将来を考えないこと。そうならないためにも、次の機会はきっと楽しいということを期待する、信じることなんですね。次のチャンスが楽しいという期待が大きいと、現実との差でショックをうけることがありますね。だから、あまり大きな期待はしない、でも期待したいというのが本音ですね。楽しさはいつか終わります。明日か明後日か、来週か、一ヶ月後が一年後か、そしていくつか。
 多分、その時に一生懸命にはまるというのは、終わりがあるからかもしれません。今を逃すと後がないから。そして終わりがあるから、その時々に必死になる。楽しい世界も、うれしい世界もいつかは終わる。次のステップのために。終わりを考えたら悲しいから、とりあえず今は今のことを考える。そうなんですよね。指導教授が二度替わりましたが、終わりを意識して、がんばろうとして、でもだめでした。大平先生と田近先生。田近先生の時は、先生が退職になる前になんとかまとめようとても無理でした。終わりを意識していたらだめでしたね。自分のペースですね。大切なのは自分のペース。
 そして、何か新しい展開があるという期待ですね。楽しいことはこれという前から決めた期待でなくて、何かわからないけど、何か起きそうだという期待をすることから生まれるのかもしれません。
 自分の成長が一番望ましいけど、周りの人、見ている人、関わる人が成長するともっと楽しいですね。一番わかりやすいのが文章。文章の進歩は目に見えるから。絵もそうですね。素質がある人が素質を伸ばしていく、その過程を見守るのは楽しいですね。それは想像できない未来への期待なのでしょう。
 終わりを知っていて、それを抑えて今をよりよくしようとするのが大人なのかもしれません。

 今日も雨でした。そしてかなり涼しい。こういうときは、牛乳がおいしい。ブルーベリーもおいしいですね。学生のころ、イタリアーノのブルーベリーとチョコチップが好きでしたね。今は、ハーゲンタッツの抹茶。今日は、ママパスタの杏仁豆腐を食べました。トロりとしておいしいですね。
 ブルーベリーはガムもよく噛みましたね。今はほとんどガムを噛まないのですが、学生のころは、ブルーベリーガムと金木犀のガムをよく好んでいました。

 模範解答なのものを提示するのではなく、集まった解答から選んでみるとどうなるか。本当の模範。するといままでの解答は規範解答。到達基準としての規範解答ではなくて、その集団の中で光っているものを見れば、実際の集団の結果であるから、そこまで到達可能であることを示します。光っている人に対してより高いレベルを示すには規範解答が必要となりますね。
 目標というのは、今までの自分の最高ではなくて、自分の今までの力よりも上を目指すことになります。自分の限界値を「閾値(いきち)」といいます。この場合は限界というよりも普段出せる力の最高値ですね。この閾値の範囲であることは、普段の力であるから、そこまではの範囲です。となると努力が必要となりなくなります。この閾値を超えることで、今までの力より上の努力をすることになります。そうなると今までにない力を出すことになります。潜在的な力があり、その力を伸ばすのですが、今までの範囲の努力ではのびません。だから、精一杯の努力、もうこれ以上努力すると倒れる、というぐらいまで努力することで、もう一段階自分を伸ばすことができます。
 これは運動のみらなず、精神的なものも同じだと思います。最高のものを創り出すには、自分に試練が必要です。ある程度のストイックな自己抑制ですね。この自己抑制、あるい忍耐、あるいは発散、などによって精神的に大きくなります。大きなショックや辛い状態、鬱状態もそうですが、これらの状態によって、自分と見つめ合う時間ができます。それで結果として努力していくことになっているのです。自分と見つめ合うことで、自分はどのようにがんばれるか、いや、がんばったかということ、結果を見ることで自信につながります。何かすること、行動の結果は自信です。考えるだけでは自信になりません。行動が自信を生みます。それは運動のみならず、書くことや話すことも入りますね。描くこともそうです。多くの数をこなすことから

 光ファイバーに変える予定で業者に連絡。いくら速くてもパソコンや周辺機器に対応しなければ、速くないですね。速くても、ネットに接続する時間が短縮されるわけではないので、単にストレス解消のためだけですね。でも、ftp使う場合は速くなるか。まあ速いほうがいいというのは、実を伴わなければいけないわけで、その点では、新幹線の速さがどこまで速くなっても、劇的に速くなって便利になるわけではないのですね。なぜなら、速くなっても、どこがで時間つぶしをした同じです。
 高速道路でいくら急いでも、インターの出口の信号にかかったら、40秒ぐらいなら追いついてしまいますね。それと同じで、ある程度の速さはロスタイムを考えるとそれほど大きな変化はないのですね。
 では何が速くなるか。全ての仕事が速くなるのではなくて、速くなることへの意識、期待ですね。それがかなうだけ。気持ちの問題。相対的な生き方。

 手の痛みはまだまだ。寝ているときはいいのですが、起きていると、動かさなくても痛くなります。それで湿布薬を使いましたが、これで痛みは抑えられます。ただ、パソコンを使うのそれほどでもないのですが、箸を持つのが一番辛いですね。それで判断したのが、中指を動かすと痛むということ。それで、パソコンの場合も中指を使うキーは、薬指で代用。ちょっとスピードは落ちますが、それでも打てないことはないですね。以前指を怪我したときにも、人差し指の代わりに中指を使いましたから。少し中指を左にシフトすればいいだけなのですが、

 「NARUTO」を見ていて思ったのが、戦闘シーンの場合は次回の最初に数分かかって重なりを放映しますが、そうでない場合はすぐに切り替えられますね。そのあたりは物語の重要な点を重ねることが意識を高めるのでしょう。
 そう、それは回想シーンと同じ。回想シーンは意識の強さを示したいがために出しますね。本来時間軸にするには回想シーンはないはずですから。そうなると、時間軸を超すために回想を用いますね。本来なら回想はなくてもいいわけですね。回想する必要がない。だが、回想シーンを加えることによって、時間軸を加える。本筋ではわからないところに解説を加える。それは台詞も同じですね。
 主人公が悪役を対峙するのときに名乗りをするようにして、相手に言い含める。それと同じですね。そういうことでストーリーに展開を示す。そうでないと、示すことができない。捨てぜりふや、名台詞といわれるものも、同じですね。

 昨日調べたDVDの件、LPCM(リニアPCM)音声で作成中。ただし、高画質で変換しますから、結果がわかるのは、今週末になる予定。

 4:00就寝、10:30起床、3:30睡眠。寒くて何度も目が覚めました。ただ、久しぶりに夢を見たという実感がありました。午後少し仮眠。しかしはっきりせず。


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