鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.08.06  自己表現と認識

 再び、サイト運営について。この場合は個人サイトであり、商業ベースでもない、いわば趣味としての自己表現のサイトのことです。サイトが自己表現としてのサイトであるから、自己の表現を変えていくことになります。

 文章がうまくなるにはどうしたらいいですか、という質問を受けました。本を読めばいいのか、何をしたらいいのか。それに対して「感性」だと言ってしまうと、それは答えになりません。「どうすべきか」という質問については「こうすべきだ」という行動を答えとします。「何が必要か」という質問にし「これだ」という要素が答えとなります。
 では、先の質問に対してはどうすべきでしょか。この答えは「書くこと」となります。本を読むこともそうですが、文章とは自己表現であり、それには「これだ」という決まった表現方法はありません。その人に合った表現があり、その表現とは誰にもわかることはありません。他人の視点ですから。でも、その人の悩みや解決されるべき方向性としての意見は言えるのです。それがアドバイスです。
 このアドバイスで一番の効果的なものは、上手くしていこうとする人の意識をもう一度整理していくことです。上手くなりたいという意識自体がすでに自分をよくしようとす意識があるのです。日本語が上手くない、というのは、日本語を上手くなりたいという向上心があるのですから、その意識がある以上は向上しようという行為を無意識にも意識的にもしていくことになります。それは、自分にあった表現とは何かということを追究する過程となります。

 パソコンに向かうとき、ディスプレイから発せられる青色が私の目に合わない、いや、よくないので、パソコン用のサングラスをしています。目に良くないといわれている青色の一部をカットするので、ギラつきなどなくなり、見やすくなります。まぶしさがないのが楽なのです。今でもディスプレイの明るさとコントラストは50%ぐらいに下げていて、それでもまぶしくなったので、液晶に変えました。液晶でもまぶしさは変わらず、変わったのはディスプレイの前の空間に文房具やカードリーダー、ヘッドホンに電池、ラジオ、MOの山、郵便の山となった光景です。その光景が視野に入ること自体が実は精神的にはよくないのですが、その光景をも含めてパソコンの環境になっているのが、なかなか面白いのです。
 で、このパソコン用のサングラスですが、かけていると、顔の脂がついてしまい、一部曇ってしまいます。その脂を取り除くのにティッシュだと伸びるだけでとりません。そこで、帝人の「あっちこっちふきん」を使うことにしましたら、これがすこぶるよく取れます。このふきんは繊維の一本一本を絹と同じ太さにしています。絹はとても繊維が細く、先がするどいので、細かな汚れよくとれるのです。絹を濡らして肌を擦ると、すべすべするのはこの理由です。しかし、絹は漆などのきめ細かい塗りをこすると、細かな傷がつきますから要注意です。それゆえサングラスの脂がよくとれるのでしょう。
 しかし、このよくとれるというのが実はあぶないのではないかと思いました。炭入りの石けんがあって、それは肌がすべすべするというのです。で、効能書きを読むと、細かな炭の粒子が皮膚の穴の一つ一つに入り込んで、汚れを吸収するのというのです。活性炭もそうですが、細かな穴があり、そこに汚れが入り込んで、吸収する。それできれいになり、臭いなども吸収してしまうのです。ところが肌の場合はどうなのでしょう。毛穴の汚れがとれるというなら、よくわかります。しかし、肌がすべすべするというのは、どういうことか、それは肌の表面がすべすべしていることになりますね。ということは、肌の表面が擦れた、あるいは削れたということになります。表面の突起がなくなるから平坦になり、すべすべする、となりますね。もちろん、汗をかいたときのように、べたべたするという状態から、べたべたがとれてすべすべになるならわかります。しかし、そうでないときに、すべすべするというと、削れたということになりますね。そうなると、木をかんなで削るように表面を削る意味が、あの炭入り石けんの効能書きに含まれるのではないかと思います。
 よいということは、どこかでマイナスもあるかもしれません。以前から考えていたのですが、体にいいからというものは、どこかでマイナスな所もあるかもしれません。本当にいいものは、そのときに都合のよいものとは限りません。都合のよいものはその場にしか合わないからでしょう。
 都合の良いということは、今の自分に合ったものです。それよりも、今の自分をもう少しよくしていくものがあれば、それは自分によいものだと思います。自分を伸ばしていくこと、成長の過程をみつけてくれるもの、そこにこそいい価値があると思います。ただ楽である、娯楽である、楽しいというのではなく、何か新しいものを見いだすきっかけをつくってくれるもの、あるいはことは、自分にいいものなのでしょう。
 ある意味では、考えること、自己を変えていくこと、それらをするきっかけをつくるのは自分自身ですが、そのきっかけとなる触発されるものは、他にありますから、その他とは、人でもあり、ものでもありますね。その他との関わり合いによるのでしょう。以前はなんとも思わないものでも、ある時にふと、自分に影響をおよぼすかもしれません。
 楽しいイベントのみならず、祖父の死などの肉親の死、あるいは誕生などの出来事は自分に影響を及ぼす可能性があります。それは、イベント、死、誕生という出来事のみでなく、そのイベントや死、誕生ということに対して自分から関わろうとしていたこと、自分がその対象を好意的に取り組んでいたことがあるからこそ、影響があるのですから、例えば祖父の死で悲しいとは、悲しいまでに祖父に対しての愛情があったということなのです。それは、その自分の意識、潜在意識でもありますが、その意識があったらこその出来事なのです。
 すべての感動や喜びというのは、他から与えられたものではなくて、自己の中の意識が対象との距離を近づけているのであり、その意識があるからこそ、自己の意識を変えていくことができたのです。

 文章を上手くしたいという質問に対しては、「書くこと」だと言えます。時たま書くのではあまり効果がないでしょう。いろいろな素材について書いていくことでしょう。そして多くの文章から気に入った表現を記しておくこと、それが重なっていくうちに自分にとってよい表現がわかってきます。
 例えば私の場合は、「子供」というよりも、「子ども」という表現の方が好きです。これは語句の場合ですが、文章そのものや比喩表現などの部分的な表現から、大きな全体への構成なども含めて、自分らしさの表現がいつかできると思います。
 ただ、望んでいる表現ができても、その時には次なる自分の目的が出来ますから、常に自己表現を求めていくことになります。

 ネットで毎日のように更新、あるいは書いている人は、その人なりの表現ができつつあります。それゆえ継続することで、スタイルが確立し、そのスタイルが実は読み手には興味を湧かせることもあります。その一つが永井荷風の「断腸亭日乗」です。毎日のことを書いているのですが、時にはつまらないことでも、書き続けていくうちに、その人の生き方や考え方がわかるのです。そしてその長さがその人の文体として確立できています。
 ネットというのは他人にも読まれるゆえに書き手は不特定多数を意識します。その意識が読み手を自分を含めた他人を意識する以上、伝達意欲と向上意欲があると認めてよいのであり、その意欲について自己認識して、そして再び書いていくことですね。

 書き続けていく人は応援したいと思います。その力は富士山に登るよりも強いと私は考えています。

 蝉の声が盛んに。ヒグラシを聞くと、ほっとします。もう少しすると、夜に草むらの虫の声がしてきます。都会だとそれほどでもないですが、自然に囲まれたところでは、虫の合唱ですね。そういう場所、行きたいですね。

 花巻のことを聞きました。以前、宮沢賢治記念館に行くために訪れ、花巻温泉に泊まりました。町全体の雰囲気がとてもよかったのです。そのうちに再び訪れてみようかとも思います。以前に遠野や宮古、気仙沼、平泉、八幡平などは訪れましたが、盛岡はまだですので、盛岡、花巻、北上と訪れてみたいと思います。ゆっくりと。
 急いで回る旅はよくするので、ゆっくりと回ってみたいと思いつつ、なかなか実現できません。あと3年ぐらいになりそうですね。

 学会の紀要で、印刷不良を発見。原因は外字部分。そして詳細な検討をしたら、こちらのフォントの異常でした。まだ修正が終わってません。もう一回コンパイルしないと。明日までかかりそうです。責任を取って、事務局長を辞任しようかと。もう交替してもよい時期ですから。ちゃんとした方にまかせるのがよいでしょう。かなりあせりましたし、今回の件は大きな件だから、考え直さないといけませんね。

 富士山の影響で、毎年足の爪が割れて、去年は左足の小指の爪がはがれました。今年は大丈夫かと思ったら、右の薬指の爪に内出血が見られて、昨日から痛みが。ほおっておくしかありません。筋肉痛が激しく、重いものは持たないようにしています。

 モデムの接続不良となると、ネット接続できませんが、そのときは焦りますね。特にネットすべきことがある時は、困ります。モデムの電源を入れ直すのが一番いいのですが、しかし故障もあります。特に停電の時など。あせらず行動するのが一番です。でも、焦りますね、一日が長く感じられますから。

 2:30就寝、8:15起床、5:45睡眠。起床は広島の黙祷放送で。もう、そんな時期になりました。

 昨日の日乗の説明と、花火の写真です。

富士山の8合目から雪渓が残っています。
富士山山頂直前の眩暈です。太陽の周りに虹が見えました。眩暈は左半分でした。下に見えるのが山頂。
富士山の火口です。すでにドームは撤去されていました。火口までは降りられません。上で切れていますが、剣ヶ峰です。
隅田川の花火大会です。
隅田川の花火大会は途中にコンクールがあります。テーマで選びます。
一つ一つ打ち上げるのではなく、数多く打ち上げるのが隅田川花火の特徴です。

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