鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.08.21  何のため 
 

 アゲハチョウ。
 気温の上がった昼に、外で作業をしていたら、ふと目の前をアゲハチョウが。ひらひらと、風になびきながら、目の前を上へ、そして左へ。また前へ、下へ。そして前へ、右へ。私の歩く方向に行っているようです。そして、建物に入ろうとすると、横にある欅の枝にとまりました。ふと、「お前はもう少し、そこにいなさいね」と言いたくなるほど、アゲハチョウの動きはきれいで、そしてその黒は、あくまでも、黒く、美しく、もっと見ていたいと思うほどでした。その後で、外に出るとすでに蝶は形を残さず、ただ、夏に近い日差しだけで、あたりを照らしていたのです。
 ふと、「夏なんだなぁ」という実感が湧きました。

 夜、帰りの道、いつもの違う道を通ったので、光景も少し違います。ファミリーレストランの前で、明るい街路灯に照らされた木の葉は、緑を一段と輝かせて、それはきれいです。都会特有の灰色をした夜の空にあざやかな人工的な色を帯びた緑が、あざやかに輝いていました。

 いつも、気に入っているさるすべりも咲き始めました。その家のさるすべりは、紫が濃く、赤紫でもなく、紫でもなく、その存在感を示している色でした。その花の色は秋の終わり際に別れを告げます。それまで、あまり目立つでもなく、ひっそりと咲くでもなく、名の通り、百日紅は咲いていきます。

 飴をあまり食べませんね、と言われました。嫌いではないのですが、なぜ食べないか。飴が小さくなると、欠けてきます。その欠けたところが、舌にあたり、舌を切ってしまいます。よくあります、こういうこと。それで、痛い思いをしてしまいます。それで、飴をなめなくなりました。嫌いではないのです。山登りのときは、飴を食べます。
 トーストもそうです。焼けたトーストの表面は、上の前歯の奥、舌の上があたる口腔内ですね、そこに焼けて堅くなったパンの表面が当たり、切れてしまいます。時には、皮がめくれてしまいます。それで、痛い思いをします。それで、焼けたトーストを食べるときは、注意が必要です。
 でも、トーストは好きで、バターの染みこんだトーストに蜂蜜を塗ったり、ジャムをはさんだりするのは好きなのです。ただ、痛い思いをするので、あまりできません。最近、自分で昼食を作るときは、焼かないでツナマヨネーズをはさんでおわりにしたりします。特にお金がないときは、そういうパターンか、おにぎりというパターンですね。おかずを作る時間がないので、それだけで終わりにしたりします。
 それも面倒な時は、食べなかったりします。朝は食べないと持たないのですが、昼は食べなくても持ちます。夜もそうですね。

 なんで、こんなに弁解じみたことを書いているのかというと、見ていて、優しさを感じるという反面に、自分に優しさが足りない、厳密に言うと、能力が足りなかったからですね。自分ならこうするのに、というのを相手に求めると、相手は自分と違うので、その通りにはなりません。しかし、どうして出来ないのかというストレスがたまってしまいます。自分中心になって行動してしまいますから。

 やさしを求めてはいけない。自分と同じ規準でやさしいはずがない。

 勉強できない、いや、朝起きて勉強できないけど、どうしたらいいかという相談に、ずばりの答えが出来ませんでした。5:00に起きたいが起きられない。なら、7:00にすれば、というのは答えではありません。むしろ、日中の時間を使い方をよく調べて、効率的な使い方をアドバイスできればよかったのでしょう。
 そういうことの繰り返しなのです。現実は。
 だから、自分という存在が優しさを他人に求めても、自分自体は他人か見て、やさしくないのでしょうね。ある意味ではおせっかいです。

 学生の頃から思っていました。異性間で話をすると、第三者は恋愛をからめて、関係を疑います。時折、異性の相手が、恋愛感情について思うこともあるでしょう。それについて、はるかの昔、学生の頃の先輩は、恋愛感情抜きの異性間の友情はあり得ない、と言いました。私は、そんなことはない、異性間の友情はある、と信じたかったのです。恋愛感情抜きの友情が。でも、結果は、そうはいかなかったのです。

 たぶん、多くの現場で、仲良くしている異性を見れば、当然恋愛感情と見てしまうでしょう。そういう感情を抱かせる方も悪いのかもしれませんが、しかし、そういうことなしに話ができないかと、いつも思います。研究の場だと、そんなとはまったくないので、純粋に研究のことのみを話をできますが、それは研究という場での話であって、それは友情とは違います。

 友情とは何か、きっと、そんなことわからないまま、年月は過ぎていくのでしょうね。ただ、仕事の繰り返しで。どうあがいても、なにをしても、結局は、自分はそこにしかいられないのです。そこにいること、だから自分だということは頭で知っていても、でも、それを信じていくには、強い心が必要です。弱いから、どうしても迷います。そして、自分の思い通りにならない表現、態度、行動、言動に後悔していくのです。後悔しても始まらないのはわかっていても、そうせざるを得ない。だったら、行動した方がいい。でも、それでまたいろいろの関係が崩れていく。そう、終わっていくのです。

 楽しさがあるから、楽しい時があるから、終わりがあるのです。特に時間に区切られた仲間同士は、その終わりを知っているからこそ、短い時間を楽しむのかもしれません。着実に終わりに向かっているのです。それを怖がっては毎日が退化してしまいます。日々のことを一つ一つ、有意義にして、そして、自分を信じて、他人を尊重して、そういければいいのですが、人間それほど高貴ではありませんから、いろいろと、心を黒くして、そして惑いながら、自分の存在価値を確かめていくのでしょう。
 いつになったら、それが終わるか、だれもわかりません。ただ、いつか太陽が爆発して地球が滅びるように、終わりが来るのは誰でもわかっていることです。

 今、私は、何のために存在しているか。 あなたは?

 そう、夏はまだ終わらないのです。

 6:30就寝、7:40起床、1:10睡眠。これでも眠く成らないのは、異常です。最近、複数の人から「早死にするぞ」と言われました。たぶん、そう思いますが、それでも年老いてきました。だから、早死にしません。というよりも、もう早死にという年ではなくなったからです。


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