鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.09.08  比喩 
 

ふと、表現の仕方について考えてみました。ありきたりな表現ですが、恋愛が一番ドラマでも多いので、その表現で、特に別れについて。次の4つの例を出してみます。
 A「彼と別れたの」
 B「彼に逃げられたの」
 C「彼を自由にしてあげたの」
 D「彼は自由になったの」
Aは通常の表現ですが、自主的な別れとも考えられますし、相手が逃げたとも考えられます。
Bは自分の思いは残っているのに、彼から別れを告げられたという、振られたという行為になりますね。惜しむ気持ち、残念な気持ちが込められています。
Cは自由にしたくないけど、彼の望む通りにしてしまった。あるいは、彼に逃げられたけど、それを認めたくないから、自由にしたという自分からの行為と言い換えているのかもしれません。本当は、もっと一緒にいたかったのに、という気持ちもありますね。
Dは相手が逃げたという表現をより強く出していますね。あるいは、私はこんなに心残りで、心を束縛しているけど、彼は自由になった、それがうらやましいという気持ちがあるかもしれません。

 同じ出来事でも、このように言い換えによっては、表現が異なります。具体的に言えば、直接表現と間接表現、いわば比喩なのですが、この比喩によって、言い方はのニュアンスはかなり変わります。ことばが伝わるのではなくて、語り手の意識が、相手に伝わるのですから、ことばはあくまでも、使う人によってこそ、使うという便利なものになります。

 ことばば、純粋に気持ちであっても、受け手によってその気持ちが伝わるかどうか、わからないものです。本当はどういう気持ちか、それは、誰にもわかりにくいのですし、そして、他人にも伝わりにくいのです。だからこそ、比喩などの表現があるのだと思います。だれもが伝える表現が、その通りに伝わるのなら、表現を工夫する必要はありません。表現を工夫するということは、もともと言葉では十分に相手に伝わりにくいからだと思います。だから、表現に工夫を凝らして、雰囲気や余韻などで伝えようとする、そこには、現実的な厳密なものではなくて、全体的な心情を現すという意識があると思います。

 で、久しぶりにオムニバス。あるいは、箴言もどき。

 フルカラーコミックについて、一部にあるという情報を入手。これから調べます。コミックとアニメの融合は何か。

 考える時間はわずかで、細かな雑務に追われて、しまい、まだまだやるべきことができていませんね。心してかからねば。

 依存症があります。何かに依存するということ。でも、私が使う依存症は、症状としてのものであって、悪意はありません。依存すること、そのことは悪ではなくて、依存していくことに楽しみさえ感じます。依存するものがないときこそ、寂しいのであって、依存するものがあるのは、一つのオタクとしての存在価値があります。あるいは、人間らしいというのが事実でしょう。
 パソコン依存症というと、ネットのみという思われますが、パソコン作りやパソコン内部や、パソコンのみ使用がパソコン依存症でしょう。むしろ、ネット依存症ですね。ネット依存症はそれは情報収集の面と、自分のサイト公開の面とあります。それはそれぞれ享受であり、表現であり、それはいいことなのです。依存症が強くなると、依存症であることさえ自覚できません。それが一番恐ろしいことであって、依存症自体は極普通の行為であるというのが、私の考えです。
 つまり、自覚なのですね。

 ふと、パソコン周りを見たら、扇子が3本も。すべて、ノベルティですが、いつの間にかたまったようです。扇子は携帯として実用の道具ですね。これだけの歴史を超えて、今、使われるのは、それなりの美しさがあるからでしょう。

 職場の共用パソコンのウィルス感染、168ファイルでした。大したウィルスではないのですが、それにしても、ウィルス対策ソフトを3年近く更新していないというのが信じられません。危険きわまりないですからね。

 腱鞘炎が悪化。さきほど、腕にしびれが。筋肉をつけないといけませんね。

 どうも、いろいろとうまくいきません。仕事も、研究も。詰まりに詰まってます。打開していかないと。

 最近、以上に大規模火災事故がありますね。不安です。あるいは、疑問です。

 3:50就寝、7:10起床、3:20睡眠。


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