満月でした。荻窪の青梅街道は跨線橋になっています。そこから見る月は、街の灯りをしきなべて、ただ金色の輝きを永遠に秘めて、そこに確かに存在していました。満月の香り、そこにあるからこそ、その位置を確かにしていきます。そして、冬の空は街のおぼろを反映して、薄らかな暗がりの中、横に遠くを忘れてしまうかのように、低く抑えていました。
満月は夕方に出ます。日暮れの寂しさのあとに、顔を出すその輝きに古の人は、楽しさを期待したのでしょう。兔の餅つきもそうですね。共同作業としての餅つき。月明かりであればこそ、その明るさ、道をも照らします。以前、街灯のない場所を歩いていたとき、そう、夏の夜でしたが、月の明かりは木々の葉をも鈍い金色に染めて、しかし、しっかりとそこに見えていました。その輝きは、明るいと言うよりも、道を照らす、道を示す明りとして、そして、明日への希望を照らす灯りとして、空の位置をしっかり示していました。
最近、みそ汁を温かいうちに食します。温かいみそ汁は体をゆっくりと、そしてじっくりと五臓六腑に染み渡り、その温かさを額にまで上らせていきます。その温かさのみなら、スープでもいいのですが、しかし、みそ汁です。みそ汁はかなりの香りがしますから、周りは迷惑先般でしょうが、それでも、職場ではインスタントでもいいので、みそ汁を飲みます。
一口含むとそこには、出汁にふくまれたほのかな甘みと、そして、味噌特有の温かさを舌に染み渡らせ、出汁の味を引き出し、まろやかな感覚と、そして、日の光を浴びたような心穏やかな気持ちを、そこに再び見せてくれます。
日本の食事から温かさが消えて久しいのですが、温かい食事は大切であり、その温かさそれは、健康でもありますが、それだけではなさそうです。
みそ汁の温かさは、それは体を温めるだけではなく、心の疲れを癒す温かさかあると、その芳香とともに、位置するからこそ、日本の伝統的な食文化の中心として、なくてはならないものとして、存在しているのではないでしょうか。それほど大きな意識はなくても、作り手はご飯とみそ汁について、こだわりをもつのです。それは、自分の作った味が一番おいしいと。そして、だれにでも作れる者ではない、個によって味がことなる、再現不可能なものであるからこそ、人々はみそ汁を作り続けてそしてそれを文化として継承し、作り替えて、新しい味にしていきます。
もちろんそれはカレーとて同じで、自分の家の味を引きずり、そして新しい相手とともに、味を変えて、そして、継承していくのです。
しかし、カレーと違い、みそ汁は作られる頻度が違います。その頻度からしても、みそ汁の食卓への貢献度は高く、そしてそこに期待する人の味覚は、みそ汁に味噌と出汁と具の味のみならず、愛情を感じるからこそ「母の味」などという敬称を使うのです。それは、個性であり、その個性であるからこそ、存在の価値、それはみそ汁の存在価値ではなく、作り手の存在価値、そして作り手が飲んでくれる相手への気持ちを込めるという意味では、飲み手の存在価値までも含んでいると考えていいのでしょう。
それは、クリスマスのプレゼント、相手が居るからこそ、用意できるのであって、相手がいないと用意しても意味がありません。プレゼントの価値とは、存在する物体ではなくて、送り手がいて、受け手がいて、送り手が受け手への「気持ち」を込めている、いわば、気持ちが、意識が、友情が、愛情がそこにあるのです。
そして、その愛情が相手にしっかり届いているのです。
それは言葉とても同じです。ことばも送り手がいて、受け手がいて、そしてその間に気持ちがあって、その気持ちの存在価値なのです。ことばが伝達の道具なんて、それは陳腐にきわまりない、表現で。伝達の道具なら、それは、存在そのものも伝達の道具となりますから、人間そのものも道具になります。ですから、伝達の道具という考えは私は持ちません。そうではないのです。そこには伝えようとする人がいて、伝えたい相手が居て、そして、そこには伝えたい内容、つまり感情があるのです。その気持ち、どこまで伝わるか、心配だからこそ、いろいろな表現がありますし、人によって理解が異なりますから、
ことばの大切なことは、気持ちが、それは好意でも嫌悪でも、無機質でも、気持ちの存在を示していることなのです。小説が読まれるのは、そういう理由です。伝えたい人と、伝える人と、伝える内容と、それらを含む、気持ちがあるのです。気持ち、それが人間の大切な存在価値だと思います。
3:50就寝、7:30起床。3:40睡眠。
◇ ◆ ◇ ...あなたの気持ちは、あの人に届いていますか...
そして...
...私の気持ちは、あなたに届いていますか...
◆ ◇ ◆
2003年、冬。 |