2004年が始まりました。年の初めはいつも、お節料理か掃除をしている時ですが、今年は、ゴミをくくっていたら、年を越しました。毎年変わりませんね、この調子。ただ、年賀状をパソコンで印刷するまでは、手書きでしたから、30日から、1/2日までかかりました。その分、年末からの他のことをしていますね。
で、新年早々、頭痛と目の奥が痛くて、パソコンから遠ざかってました。寝たり起きたりの繰り返しですが、夜になって大分よくなって、そろそろと年賀状の整理。まだ出していない人への返事は、明日になります。明日は墓参りなので、その後ですね。初詣も今日は止めました。明後日に近くのお寺で。後厄のお札は、通販で頼みました。そんなんでいいのか、まあいいのではないかと。
年越しの番組で、カシオペアとスクエアのイベントを2局でやってました。BS朝日の方を見てましたが、伊東たけし、野呂一生、向谷実、懐かしいです。カシオペアは、向谷がソロのCD出した時に、NHKホールで見たのが最後でしたね。名曲「ASAYAKE」はもろちん、あの終わりのギターとドラムのリズムに感動したものです。
それと、スクエア。Tがつく前の初めての武道館を見ました。もう20年近く前ですね。伊東たけしが、リカちゃんのお父さんと言われていたときですね。Truethの前だったでしょうか。あのリリコンの音色は今も変わりませんね。両方とも日本を代表する名バンドだと思います。テクニックもさすがですしね。ほとんどが男性ファンという意味では、オタク的な臭いもしますね。アニメオタクの人たちは、カシオペアやスクエアは聞くのでしょうか。
年越しはほんの少し、「ROCKの要」も見ました。CHARとのジョイント、面白かったですね。ギターテクニックの妙を見ました。ギターで上手いのは、フォークなら石川鷹彦ですね。この人の右に出る人はいないでしょう。フュージョンといったら失礼ですが、高中正義もうまいですね。そしてだれもが認めるのが佐橋さんですね。渡辺美里のコンサートで有名ですが、後に、小田の「ラブストーリーは突然に」のイントロのギター、あれを演奏してましたね。「チャカチャーン」に聞こえますが、実は「チャカチャカチャーン」というテクニックです。フォークではアルフィーの坂崎さんも上手いですね。その次当たりに根本要が入るかもしれません。多少ミスがあるから、除外するかもしれませんか、洋楽は詳しいから、「ROCKの要」のようなコアの人たちの番組があるのでしょうね。いや、ほんとコアないい番組です。洋楽ファンなら、おっ、と面白く楽しめますね。ああいうのが、本当の意味でのトリビアではないでしょうか。
あとは、あまりテレビを見ず。見たい番組もいくつかありましたが、けっきょく見ないで終わってしまいました。今年のテレビはつまらないですね。
昨年に「胡散臭い」人々について書いたのですが、これが尾ひれがついて、少し議論となったようです。つまり、誰かということで。
影で批判することはよくあることですが、そういう人の発言が一番胡散臭いですね。直接言えばいいのに、間接的に、それも聞こえよがしに言うのは、どうみても、負け犬の遠吠えですが、心理的には有効な手段です。これはどこまで冷静にいられるかという勝負ですね。
とある大学にはいった人がいて、その人は自分にあった服装を考えて通学するのですが、他人から見たら派手なのです。それで、大学の周りの人はいろいろ影であれやこれや、ないうわさを立てたのですが、それで本人には普通に愛想を交わすというのが、とある人には見えていたのです。友だちのふりをして、影でいろいろ言っていたのです。ただ、これは当然あることで、自分の友だちが自分の悪口を言うなんて、信じたくないでしょうが、これは当然のようによくあることで、「あのひとはせっかちだから」程度なら、いつでもありますね。そう考えると友人は冷たいように見えますが、そうでなくて、いい面も悪い面もちゃんと見ているということなのです。ただ、それが度を超えて批判でなくて、悪口雑言になると、それは友だちではありません。
で、とある人も、だんだんいずらくなって、いろいろな人に相談したのですが、その結果は服装を変えた方がいいということでした。社会通念上、その場にあった服というのがおおかたの答えでしたね。私はその時に、大学をやめて、自分にあった場所を選ぶことを薦めました。もちろんそれはいいことかどうかわかりませんが、最終的に判断するのは自分ですから、自分の判断を尊重します。ただ、周りの他人して、状況から見て、我慢する必要はないと思ったのです。迷惑をかけているわけではありませんし、その自分の信じる存在価値を認められないのであれば、その価値を認めていく方向へ行くのが一番いいからです。
結果として、自分の進路を進むことになり、大学をやめて進みたい道を歩いたのでした。結果論だから言えることですが、そういう人生だってあるわけで、それを認めないということ自体、枠組みの中でしか生きられない人の悲しさを表現しているわけです。
他人を排除しようとしても、その排除は実は自分の無力と嫉妬と、比較と、そして自分の存在価値のなさを示しています。批判はそれ相当の価値ですが、ただ中傷することは、中傷を言った人が無慮であり、無知であり、そして、創造力のなさを示しています。それに気づいてはいるのですが、認めたくないので、他人を卑下し、自分を高めようとするわけですが、所詮、低いものは低いものの中でしか相対的になりません。
高めには、自分の意識を変えることです。すでにある自分の思考の枠組みを取り払い、新しい思考にしていくとであって、それは辛いことですが、その思考をしていくことよって、自分を成長させます。それができるかですね。自分の殻を取り払い、新しい殻をつくることです。それによって、新しい自分は価値を広げ、今までの自分を相対的に認めていくことができるわけです。
冷静になれるかというと、実はそうではないですね。アメリカのビル破壊テロについて、復讐の連鎖を断ち切ることの大切さを訴えていましたが、それは同感です。しかし、それはかなりの苦痛を伴いますね。例えば、今、身近な肉親が殺される。それに対して復讐を抱かない。たとえ犯人が懲役15年程度で、その後は自由に生活できて、自分の身近な肉親はもう自由にもなれないまま死んでいる。それに対して、復讐の連鎖を抑えることができるがということですね。紅白の最中にSMAPとか有名な歌手全員がテロで惨殺されたらどうでしょうか。お茶の間でその映像を見たら、誰がその復讐心を抑えられるかということです。そのためにはかなりの苦痛を伴います。冷静でいられるはずがありませんが、それでも冷静に復讐心を抑えるには痛みを伴います。それを強要できるかということですね。戦争反対で、自衛隊の派兵反対というのが平和主義です。その反対で平和のために派遣するという意見もあります。どうすればいいのかは、非常に難しいので結論はありません。一人ひとりの意見によって違ってしまうのです。
しかし、世論というのは、結構流されやすいので、日本で、たったわずか一人、特定の一人がテレビの前で殺されたら、きっと日本人の半分以上の人は、戦争賛成になるかもしれません。その危険性はあります。ですから、わずか一人、その人を守るのでしょうね。守れず、テロで被害を受けたら、戦争賛成に回らず、ひたすら堪えることができるか、これが痛みを堪えるということですが、この痛みを堪えることから平和は始まります。ただ何もない穏やかが平和ではありません。異質なものと共存し、自分の意見が通らなくても我慢して堪え、自分はしたくないのに、決まったとおりに行動しなくてはなりません。それを堪えることが平和です。平和とは、努力が必要で、それは精神的な強さが必要なのです。平和教育とは復讐の連鎖を断ち切るような、強い精神力を養うことにほかなりません。PTSDをなくしていくような。そんな厳しいことを果たしてしていけるか、難しいことです。簡単ではないのですね。戦うことよりも、平和でいることの方がはるかに大変ですから、日々平和については語り続けていかないと、もろくも崩れ去りますね。
友だちとの約束も、友だちに恋人が出来ると、簡単に破られてしまいます。そんなものですね。だからこそ、強く意志を持ち続けないといけないのです。それは大変な努力が必要なのです。
定見のない私としては、いつもだらだらとしまりがなく言ったり指示したりと、あいまいなのですが、私の信ずるところは実はシンプルで3点です。
「人を傷つけない」
「盗まない」
「自分に嘘を付かない」
人に嘘を付くことは、誰しもあることですから、それはとやかく言いません。ただ、金銭に関わるとそれは嘘ではなくて、盗みになりますから、よくあません。そして嘘を付いたことが身体的にも精神的にも傷つけるとなると、それはよくないことです。
一番よくないのが、自分に嘘を付くことです。自分に嘘を付くと、その嘘を隠すために上塗りします。そして、その嘘が嘘を呼ぶ。その結果自分がしたいことは全く出来ず、したくない道を選んでしまう。そうなると、先行き、どうにもなりません。
自分が信ずるところ、それを継続していくことに意義があり、それは自分の存在価値になるのです。
サイト運営をしている人は、よく限界にぶつかります。今での自分とは違った好みになることで、そして、変わった自分に合わせてサイトを変えていくこと、好きでないのに無理矢理続けていくことは、難しいので、好きなままそのままで変えていくことになります。その時の素直な自分のままで行くことが一番いいのですね。ただ、昔のことは消し去ります。今の自分のままで続けていくのなら、それが一番いいと思われがちですが、いや人はいろいろと変わる、成長するから面白いのですね。
書き続けていくことに意義があります。書いた内容よりも、書いていくという行為に、自分の存在価値を認めていくのです。書いた内容がつたないのはそれは当然で、では、いつ完成するかというと、それは死ぬときです。死ぬまで未完成で、努力し、修行するのです。その修行こそが生きているという存在価値の一面です。書き続けていくことに意義があります。それを疑うことなく、形を変えて自分がしたいことをしたいがままに続けていって欲しいと願っています。
サイト運営をして、悩める人たちは、同じような悩みに直面しますね。特にサイトは、ネット環境、電気がないと存在できません。それに永遠ではありませんね。今のサイトと、10年前のサイトは全く違いますから。それゆえ、その場という共時的な問題なのです。
1997/6/23にカウンターを設置して、それから135,717カウントということで、いつの間にか10万ヒットを越えてました。年に14000ヒットですか。メインのエントランスは2000/12に設置して、46,717カウントで、こちらは、15000ヒット/年ですかね。日に50ヒットあたり。で、重なりがありますから、20人ぐらいですか。リピーター率は計算していませんが、適宜ですね。「窓の杜」にソフトが紹介された時の一日200ヒットを越えたとき、それはすごかったです。秒ごとにヒットしていましたから。でもああいうヒットは、もうなくていいと思いますね。ただ、ゆっくりサイトを更新していけばよいかと。
思いのまま、自分の等身大のままで。
今年もできるかぎり続けてここに書いていくことにします。けっこうだらだらと書いてしまいますが。熱があるときのほうが、だらだら書けて調子がいいようです。
どこまで書けるか、それはわかりませんが、続けていこうと。いろいろと新しい試みもあるのですが、今年は一つのことに専念することに。まずはいままでのまとめを。
4:00就寝、11:00起床、7:00睡眠。
2004年 1月 1日 (木曜日) 、旧暦2003年12月10日 (先負) 己卯
昼食、お雑煮、お節料理。夕食、お雑煮、お節料理。途中、栗の和菓子を少々。煎茶、数杯。以下、今年の年賀状。
|