2004.03.14  口伝   
 

 「鼓童meets玉三郎」を見ました。玉三郎の芸は確かなもので、四谷怪談のようなものだけでなくても、その役への配慮たるもの、さすがと思っていました。吉右衛門と玉三郎と共演すれば、それは、すばらしい舞台になると思っているのですが、なかなかそういう機会はありません。歌舞伎の世界だけではなく、玉三郎は現代劇でも活躍しています。泉鏡花の作品をなんども演じています。
  そして、今回は初めて、音楽の演出をしたわけです。伝統芸能の世界にいて、伝統芸能的ではある太鼓、叩くという表現の鼓童を演出するということは、注目していました。鼓童の動きを見ていると、いずれ自分たちの世界をどうするか壁にぶつかるから、そういうときにどうするか。永六輔やその他の人たちがいて、支援しているのはわかるのですが、リーダーを事故で失ってから、いろいろ試行錯誤だったと思います。レナード衛藤の活躍で、ほぼ軌道に乗った感じもありましたが、脱退後は、模索の時代だったと思います。オーチャードでのギャザリングもそうでしたね。ずっと、シアターアプルでやっていたのを場所を変更しました。現在では世田谷パブリックシアターで秋の公演をしていました。
  随分前は、クリスマスの頃に鼓童と松山バレエのくるみ割を見るのが、通例でしたが、今は秋に鼓童を見るのみとなりました。松山バレエは見たいのですが、時間が合わなかったりします。
  で、玉三郎です。玉三郎の動き、しなやかさは、森下洋子さんのあのしなやかさに似ています。日舞のような、能のような、動きがすべて計算尽くされていて、そして演じるという技術を越えて、精神的な強さを持っていると思っていました。それゆえ、今回の番組は注目していたのです。
  もちろん、テレビですから、テレビ的な視点で描かれていますので、本当の玉三郎の真意や鼓童の真意が伝わるかどうかは、不安でした。しかし、それを捨象して、玉三郎の発言をとらえることにしました。見ていて多くのことがわかりましたが、一つ一つは取り上げません。そこで、一つだけ、取り上げることにしますが、それは、精神ということです。

 随分昔のことですが、吹奏楽の編曲・指揮で有名な上野先生の指導を見たことがあります。神奈川大学の指導で有名ですが、その時は、臨時の指導だったのです。わずか、3時間ほどの指導でしたが、その半分は話でした。最初に演奏して、もう一度、それぞれの意識を高めて演奏します。次に、細かいところを指摘するのですが、その時の話の仕方は、まったく技術的でないのです。「遠くから寄せてくる波」とか「心がわき上がる」とかそういう抽象的な言葉を使います。そして、作曲者は、こういう気持ちで曲を作っているから、こう演奏するのがいい、などと、作曲者の気持ちを解釈し、その解釈によって、譜面の一部も変更してしまいます。しかし、それは理路整然としており、そして、曲全体の雰囲気をつかませます。
  すると、次の演奏は、大きな音とか、クレッシェンドとか言わなくても自然に演奏者が強弱やアクセントをつけたりしていました。技術を伝えると、技術の範囲で凝り固まります。しかし、曲全体の構想を理解すると、表現者は自分で工夫を始めます。

 玉三郎が鼓童を指導している、いや、稽古をしているときは、譜面で指示しないで、ここはこういうようだとか、雰囲気を身ぶり手ぶり、言葉で説明します。あるときは、説明なしで。それは、その時には理解してくれないと考えたからでしょう。気が合うまでは、細かいことを言わない方がいいのです。技術的な練習よりも、話して構想を説明することの方が多かったようです。鼓童の普段の練習よりも、楽器に触れる時間は少ない稽古でしたが、しかし、曲の雰囲気、舞台の雰囲気を理解することはできたと思います。

 もし、譜面で一つ一つの音を直していくと、その音をだすことはできますが、全体の雰囲気をつかむことはできなくなりまね。音だけを直すというのは、言われてその通りにすることなので。でも、全体の雰囲気をつかむと、音の一つ一つを言う前に演奏者が工夫することができます。この点です。
  演奏者が言われたとおりにするのではなくて、演奏者がイメージをつかみ、自分で工夫して変えていくこと、そこに主眼があったのではないでしょうか。
  先の上野先生の指導もそうです。演奏者全員に音の指示をするよりも、演奏者が曲の雰囲気をつかみ、自ら工夫するようになれば発展があります。音のみを指導すると、今、その曲についてはうまくなりますが、他の曲についてはうまくなりません。自分の力でうまくなるには、何が必要かというと、自分で工夫する完成や力量、自分をつかむという工夫が必要です。
  玉三郎さんは、演出ということを通じて、鼓童のメンバーに自らの演奏を確認させ、そして向上させるきっかけを作ったのではないでしょうか。そこに目的があったようです。今までも数多くの公演をこなし、トップ集団としての演奏家の地位をもっている鼓童に、最初から何かを伝授するというよりも、自らの陥りやすい点について、指摘し、自ら向上するようにさせていった。いわば、教育的な配慮がそこにあります。
  自立・自律、自学自習。それは究極の目標であり、そこにたどり着くには道は遠いのですが、そこに向けている、そう言えるのではないでしょうか。

 佐渡の自然で、演奏活動、練習活動をしている鼓童ですが、こんごはどうなるのか、鼓童を知る人なら、だれもが気になることでしょうが、私は、むかしのアプル時代の「叩く」というテーマ時の演奏が記憶に残っています。基本的には叩くしかないのですね。叩くことで表現してきたのですが、これからは叩くことを貫くのだと思います。そうは言っても、自分の枠でなはい、ある意味では、期待を越えた何かをしてくれることを臨んでいるわけですから、今後の活動を期待しています。

 ファンという層はどうしても、最初に聞いたイメージを大切にします。バンドのライブもそうですね。定番と言われる、昔の曲の演奏にこだわります。そして、最初の頃からのファンの振り付けを守ります。あるいみではファンは受け身ですから、保守的でする。バンドの方が先進的です。先に音楽があってからそれを受け身のファンが観賞し、そして期待するわけです。
  それは、漫画もアニメもテレビドラマも映画も同じですね。受け身の存在です。ところが、その受け身の存在がパロディに近いですが、二次的な創作として表現に向けることがあります。特に、漫画やアニメに多く、漫画を漫画あるいは小説で、アニメもそうですね。ゲームも。それらの表現を支援したのが、ネットですね。ネットだからこそ、すぐに公開でき、絵も文章もhtmlですぐに出せます。phpを使えば、タグを使わなくてもホームページを作成できますね。そういう表現媒体があるからこそ、表現に拍車がかかったのです。受け身から表現へ。マクルーハンは予想しなかったであろう、展開をこれからしていきます。このネット表現というもの、そのあやうさもありますが、効果的であることには間違い有りません。ただ、それを強制的に使わせるのは問題だと思います。ある程度の表現をしっているからこそできるのであって、そこへの過程は各個人にまかせるべきだと思います。
  この表現媒体の一展開は、こんごも検証していきたいと思います。

 本日のウィルスメールのプロバイダ。plalaの方は、かなりの数になっています。今週末まで待って、止まらないようでしたら、プロバイダの協力を求めようと思います。それと、以下の掲示ももう少ししたらやめます。時間の無駄ですからね。
(178074113219user.quolia.com [219.113.74.xxx)
(q181181.ap.plala.or.jp [220.99.181.xxx)
(p5232-ip01yosemiyo.okinawa.ocn.ne.jp [219.162.141.xxx)
(p1069-ipbf201hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp [221.189.182.xxx)
(p6246-ipad62osakakita.osaka.ocn.ne.jp [220.105.55.xxx)
(pam7.nttnavi.co.jp [210.145.176.xxx)
(YahooBB219191240110.bbtec.net [219.191.240.xxx)
(RKMGw 1.4)

 春の訪れを見にいきました。梅を見にいったのですが、桜も。

梅は白加賀が好きですね。芳しさもそうですが、花の形が奇麗です。
桜の早咲きでした。

 

 7:20就寝、11:30起床、4:10睡眠。
  朝食、なし。昼食、チャーハン、みそ汁。夕食、そば、茄子の煮浸し。夜食、なし。

     
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