鴛鴦呼蝉庵日乗
2004.05.07  生産性

 職場で急に辞める人が出て、その後の対応で、いろいろと調整しました。こういうとき、いつも思うのですが、辞めてもすぐに対応可能ということです。つまり、代替可能なんですね。そうなると、その人でなくても、別の人はでもいいということになりますから、ある意味では、生産性の問題となっていくのだと思います。極端な言い方をすれば、だれでもいいということになります。それなりの技能を持てば。そこには、個性ということはあまり関係なのですね。ただ、経済的な利益のためには、別の人物をそこに補填するということです。結局それは、工業的な生産と変わりない図式であり、それを否定していくのですが、しかし、否定し得ない事実もあるようです。
  工場のような空間で、その空間で息をしていく。短時間でなく、長時間で、作られていく、その植え付けられた思想からの打破。そのためには、生産性ということは抜きにして語れず、投資したものに対しての対価が求められます。債権ですね。その債権をどのようにして回収するかという点です。
  否定しようとしても、実は工業的な生産の中に入り込んでいることを否定しえない、それを打破するには、殻を背負うことになります。それだけの覚悟はあるかという問題。
  今私が死んでも、職場としては、すぐに代替の人が入ってきます。そして、何事もなかったかのように、時は流れていきます。それが無常です。恒ではなく、変わり行くこの社会的な制度の片隅ですね。別に私である必然はどこにもないのです。それは相対的なもので、誰でもよかったのです。その誰でもという点ですね。個性を求めていくことは、それはある意味で理想なのかもしれませんが、その理想があるから、生きていけると思います。形は壊れていきます。だから、それに執着しているのですが、それは他人からの評価ではなくて、自分が生きていくという実感なのでしょう。実感ある所にこそ、今生きている価値がある。
  だから、私が今、死んでも、それは、私の問題であって、多少なりとも、弔う人や形式的に香典を出しに来る人はいても、それは一時で、しばらくすれば、何事も無かったかのように、職場でもどこでも過ぎていきます。今、親しく話している人も、やがて去っていきます。そして、忘れ去れていきます。そういうものです。個人的な付き合いでもない限り、世の中は、いつも忘却と出会いの繰り返しであり、その繰り返しの中で、大切なのは、自分が自分をどう価値づけるかということになります。それは相対的ですが、その相対的だけのためのもがくのでしょう。
  逆に刹那的な考えも出てきますね。今だから、今だけのことだから、時は忘れてしまう力を持つから、今、思い切り楽しんでおきたい。そういう考えもあります。それは、それで正しいと思っています。ただ、その楽しみというのが、娯楽なのか、達成感なのかの違いですね。

 愚痴というは、愚痴ではなくて、意見表明ですし、それはバランスでもありますね。愚痴を聞くことは、それは、愚痴の内容ではなく、愚痴を言えるという関係が大切だと思ってます。それは、共有する時間があるということです。時間を共有できることは、それは、自分の価値を認めてくれることです。単に愚痴というレベルで消去するものではないですね。愚痴は実は、向上心なのです。向上心があるからこそ、愚痴があって、向上心がなければ、現状ですべて満足してしまいます。愚痴があることこそ、実は、力だと思っています。

 都留文科大学の牛山恵先生から、「みんなのほんばこ」をいただきました。国語教育ゼミの学生さんが作ったものです。いずれMLで紹介します。

 村上呂里先生から連絡。久しぶりです。地域の体制の関係から教育を論じる視点は、さすがです。

 現実と突出の問題について。いずれ。

 年賀状のお年玉当選番号、見ていませんでした。年々、これを見るのが億劫になります。

 職場の机の上に「一六タルト」が。どなたが、松山に行ってきたようです。一六といえば、巌谷と私は思いますが、どうでしょうか。巌谷一六なら日下部明鶴ですね。でも、私はこれに近藤雪竹を加えます。吉田包竹もいいですが、やはり近藤雪竹ですね。そして、端正、昭和の文徴明と言われた松本芳翠でしょう。わずか数日の芸術院会員でしたが。

 やはり、家から外に出ると饒舌になります。

 3:50就寝、7:10起床、3:20睡眠。
  朝食、ごはん、納豆。昼食、おにぎり1個、みそ汁。夕食、甘夏。夜食、カスピ海ヨーグルト。

 
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