よく俳優などで、「お父さんに似てきた」というのがあります。大体が年齢が高くなる、つまり老齢化したときに言われますが、もしそれがそうならば、人は年を取ると親に似てくるということになります。しかし、これがそのままになると、年を取ると血族はみんな似てくるという傾向になり、つまり、顔の個性などは、老齢化するとなくなってしまうということになりかねません。
若いときも似ているけど、その「お父さん」の記憶の方が、「お父さんの若い頃」の記憶よりも新しいわけですから、比較するなら、「お父さん」の晩年や老齢化した時ですね。
つまり、比較する基準がすでに「お父さん」の老齢化した段階ですから、必然的に「似てきた」という印象になります。もし、その「お父さん」が夭折した場合でもきっと、「お父さんに似てきた」という表現を使うのでしょう。
となると、「似てきた」というのは科学的な比較のように見えて、実は、ある視点から見た、意識的なものだということになります。
このように、尺度を決めている、あるいは、いつの間にか決めている所が意識の中にはあります。それゆえ、尺度が客観的であるかのように思うよりも、それはすべて主観であり、しかしその主観とは、無意識のうちに意識的に行われている、恣意的にならざえるをえないのです。
もちろん、意識の有無を考える必要はなくて、単に「似てきた」という印象はそのままでいいわけです。ただ、その印象ということがあたかも正しい客観的なもののような価値づけをしないで、「似てきた」それで終わりで良いのです。
偶然として「お父さん」の世代を見ることができた、間に合ったのですから。
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2:40就寝、9:20起床、6:40睡眠。
朝食、なし。昼食、素麺、野菜いため。夕食、ごはん、みそ汁、冷や奴、めかぶ、サラダ。夜食、なし。 |