鴛鴦呼蝉庵日乗
2005.01.21  理解とは

 一昨年の口腔内手術の経過確認のため、歯科へ。いつものとおり、レントゲンで骨の再生を確認。まだ不十分ですが、あと半年で完治の予定。あれだけ摘出したのに、1年半でずいぶん快復していました。あの手術以来、再発を気にしていたのですが、そうでなくて安心です。でも、偏頭痛の原因が不明で、少し心配です。
  親知らずがありますが、横になっているのがあって、いずれは手術で摘出するそうですが、今はしなくてもいいとのこと。ただ、1本だけ虫歯になっているので、来月抜歯します。あまりいい気はしませんが。

 視力はあいかわらずですが、乱視が進行中。ちょっとくらくらしています。よくここまで視力は維持できました。このまま老眼になっていきます。

 仕事の文章の校正をしばらくしているのですが、これが時間がかかり、なおかつ、見るたびに直していきます。際限のないというのはこういうことなのでしょう。

 議論のかみ合わないのは、相手のことを考えないからで、そういう人の結論は本質でないから、軽々しく感じます。
  テレビで、水谷先生の記録の最後の少しだけを見たのですが、発言が真意をついているから、重いのです。相手もそのことばに嘘がないのがわかるから、理解してくれるから発言できるのですね。これがコミュニケーションの真髄で、論理や形式ではないのです。論理と言うよりも情意なのです。論理的な表現というのは軽々しくてわかりやすくても、相手に伝わりにくいものです。享受者の理解度を把握して、それに即して、個に即して表現していく、集団に即して表現していく、それがコミュニケーションの基本ではないかと思います。そのあたりを間違えると、理解の本質がわからず、軽々しい関係のみ残ります。伝え合うがいいと倉澤先生は以前、講演でおっしゃっていました。田近先生は通じ合いだと言いました。つまり、現実的な形態と、可能性への希望と、それぞれの尺度が違う判断だと思います。

 理解とは、わかるのではなくて、理解したいという欲望なのではないでしょうか。

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