大衆文化としてのブログ
ラジオを聞いていたら、その番組のリスナーの人からおすすめのサイトを紹介ということで、特にブログを紹介するということだったのですが、その中のいくつかをパーソナリティが紹介しようとパソコンで見たら、すでに閉鎖ということでした。
ネットのブログや情報はこのように、永遠でなく、消え去るものが多数です。特に個人が開設している場合は、その人がやめたり、あるいは亡くなれば、ほとんどの場合は閉鎖になります。それまでの情報は消えていきます。
ここまでは、以前にも何回も書きました。今回は以下が新しい、新しいとは何かといわれたら、答えられませんが、追加といようりも、書いていないかも知れません。もっとも、書いていても忘れています。
で、ということは、ネットのブログは残るというよりも、同時代性を楽しむ、いわば、リアルタイムあるいは、書かれている時のことを思い出し、想定していく、想像するということに楽しみがあるようです。
すでに、ブログはテキストからテクストとして考えるべきものであって、では、形象は何なのでしょうか。という問題になりつつあります。
今の文学理論、作家論、作品論、文化論、読者論、解釈学などのさまざまな文学的なキーワードが、実はブログやネットにおいて、最も深化していくというのならば、テキストの問題、書き手と読み手、読み手の創造性と想像はどうなるのか、研究に値すると思います。
もっともこう書いているここだって、いつかは消えます。
むしろ、だからこそ、書いていて楽しいのかも知れません。消えるから。形がなくなるから。
ブログを見ることと、週刊誌を見ること、捨て去るような感覚で見ることは同じなのかも知れません。それならば、「大衆文化としてのブログ」ということができるので、それに対して「純文化としてのブログ」あるいは「純文化としてのサイト」があるわけで、行政や法人など、半永久的に存続が可能な団体による、情報として正確を期するものなのでしょう。しかし、一般個人のサイトおよびブログは不確かな情報でもいいわけで、つまり、テクストをテキストにして、それをテクストにしてし読み込む人がいて、それらの関係に増幅された社会ですから、結局あいまいになります。
ブログ、もっとも、weblogというのも、記録なわけですから、当然なのかもしれません。そして、wwwがworldwide webということであれば、「世界全体にわたっての網」ですから、それらはすでに網としての曖昧さを持っていることになります。
wikipediaのように増幅するものもあれば、個人のブログもあったり、いろいろです。
さて、ここに書いているのも、ブログとなるのかもしれません。記録しているのには間違いないですから。ただ、ブログというものに食指を示さなかったのも、ブロクで書いて投稿して、スタイルを変えたりということよりも、htmlの方が簡単だったからです。
ただ、検索機能や簡単な遡及機能がないのが面倒かも知れませんが、書いている方は、さかのぼって自分の文章を見ようとはしませんし、また、公開するからには、個人攻撃などの文章は入りませんから、曖昧になるわけです。それゆえ、曖昧性が曖昧になっていく過程、テキストがテクストになっていく過程と似ていると思います。
浜本先生の恒例、海外視察期間です。帰国したら、田中先生、坂口先生のいよいよの時期です。
[今日の記録]
睡眠時間:2:00就寝、7:30起床、5:30時間。
天気:曇
最高気温:27度
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