鴛鴦呼蝉庵日乗
2001.9.3 自分の中にあるもの
   進路について考えるときがあります。そのとき、いろいろな仕事や学科などを探して、そして、自分の特性を知ります。本もそうです。本を探して、読んで、探して、そして本当に感動する本に出会うまでは、かなりの年数が必要です。もちろん、結婚相手もそうですが、何かを探すときは、運も必要です。そのためには、知り合うことがなによりも必要です。
 しかし、この探すという作業は、考古学的な発掘ならそれは、どこかにあるものを探すことになります。しかし、進路など、自分のことについて探すときは、新しい他のものを探している構造になっていますが、よく考えると自分の進路とは、自分が何に向いているかなのであって、結局は自分の問題なのです。
 もしかしたら、その向いている方向を自分は知っていたのかもしれません。その確証を得るために、他のものを比較して、安心する作業があります。買い物で、自分が欲しいものがあります。そのときに、だれかに相談するとします。ほとんどの場合、二つに迷っているというように思いこんでいて、その実は片方に決めているのに、もう一つの方がよりよいように思えてしまうのです。つまり、となりの芝生現象です。
 進路決定もそうでしょう。二つに迷っている場合のほとんどが片方に決めていて、その方にすっかり足を入れているのに、窓からよその方向が楽しそうに見える場合があります。自分はどこに足を入れて、どこを眺めているのか。そんな時に「じゃあ、やめたら」というと、「えっ」と思うことがあります。本当はどちらか、よく考えると結論は出ているのかもしれません。
 つまり、いくつかの選択という時には、すでに自分の中に決定があるのです。
 その一方、進路決定の場合で、どこに向いているのかわからない場合は、それは、まだ自分が何に向いているのかが見えていない、自分の特性に気が付いていないのです。でも、自分の特性というものはあります。もちろんそれは時間とともに変化するものです。でも、その時の進路については、その時の自分の意識があります。その意識、特性は自分の中にあります。
 自分の中にある特性を知ることであること、それは、探しているものはとても身近に、自分の中にあることになるのです。
 「自分探しの旅」とは、自分の中にある、自分の向かう方向を探すものであり、それが見えないから人間は不安で、だれかと話して自分とは何かをしることになります。比較して、自分をしることです。比較せず自分を知ることができるのは、それは高度な精神作用と言えるでしょう。
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 では、私の場合はとなります。まだまだ私の場合も、自分の可能性については、未知な部分が多いと思います。これから、ゆっくり探したいと思います。もしかしたら、相当な年数がかかるかもしれません。それでも、自分は何に向いているのか、そして、自分というものを発見できるか、永遠の旅かもしれません。完成するのは、この世を全うすると時でしょう。それゆえ、今は今だと思います。「かけがえのない、今の自分を、今の自分のことばで表現する」そのことを大切にしたいと思います。ことばは発すると過去になります。過去を引きずることもありますが、過去は今を乗り越えるための力にすべきものです。まだ分からない、次の方向へ、その模索は続きます。
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 9月2日の夕方、窓の外で蝉が鳴いていました。この日記の題名についは、まだここに書く時期ではありませんが、ふと、その名前を考えた九年前の夏を思い出しました。もともとは私の号であり、その他も一品斎、老竹、一亭楽斎、などがあります。
いずれこれらの号の由来についても触れましょう。
 そういえば、この日乗の書く日付が一日早い気がします。その日のことを書くはずなのに、寝る時間が遅いせいか、その日になって公開した日付になっています。まあ、これをもとに年譜を作るわけでもないので、日付については、あいまいにしておきましょうか。漫画雑誌だって、表紙の日付は発行日ではないですから。

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