鴛鴦呼蝉庵日乗
2001.9.5 古いエッセイ−「電話」
   さて、今日も昔に書いたものを下記に掲載します。1995年10月29日にある通信に載せたものです。直したいところもあるのですが、それでもそのまま載せます。
ハガキ
 こんなハガキが届いた。
「人間の気持ち、想い、情熱の非持続性を、いつのまにか、ずこく受け入れ、且つ肯定するようになっていた。そこには何の悲しみも嘆きも存在しないで、受け入れるようになっていたのです。うす笑いさえうかべて、それゆえに・・・・以前のように「なりふりかまわず突っ走る」ということをしたいと思わなくなった、なっていた。あえて突っ走らないようにしているのかもしれないけれど。・・・・ずるくなったということなのかもしれません。自分を傷つかないようにしている。暴走すると喜びもひとしおかもしれないけど、はるかに傷つき、想い煩う部分が増大するのではないかと思うのです。」
 あまりにも久しぶりに届いた卒業生のハガキの返事を私は、書き始めてやめた。そしてそのまま何の連絡もなかった。
  ◇
テスト
 何のために勉強するのか。高校の時、疑問に思った。それで、家に帰ったら勉強しないで、学校で勉強するようにした。そうしたら見事に3科目も赤点を取った。そして、母親が学校に呼ばれた。わけもなく母親が先生から怒られていた。その後テスト前に勉強することにした。するとクラス平均を上回ってしまった。「なんだ、そんなことか。」 テストの結果は能力の表示ではなかった。自分の努力の不足分の表示であった。そう思ったらテストは恐くなくなった。
  ◇
勉強
 勉強は嫌いだ。高校の時、学校の勉強に疑問をもって、もっと人間として生活する上での最低限のことを学ぼうと、生活の智恵が書かれている本を手あたり次第に読んだ。その結果、「茶渋を落とすには塩と酢」「素麺の湯で加減は窓に投げつけて落ちない時」などの成果が出た。だが、その理由を考えたら、勉強が必要であった。
  ◇
答え
 高校の国語のノートを見ると、先生の教え方についての批判ばかり載っていた。いつも疑問だった。「どうしてその答えでなくてはいけないのか。主題なんて考える人の勝手じゃないか。」今になって、論理的な部分以外の答えは1つでないことを教えられた。自分は間違っていなかった。それで、試験に部分点というものがある理由がわかった。
  ◇
電話
 ときおり留守番電話に10分くらいの話が入っている。私はそれで相手が元気であることを知る。そして、返事の電話をかけない。そんな状態が続いている。留守電話というものは、どんなメッセージが入っているのか最初楽しかった。しかし、その後、伝言が入っていると少し緊張してきた。やがて、恐怖にさえなることがあることを知った。「電話は自分の自由を束縛している。」そう思ったとき、散歩することの重大な意義に気が付いた。情報化と自由とは微妙な関係にあることだった。「やはり話は相手を目の前にしてするがいい」「不幸の出来事以外は明日連絡しても大丈夫だ」 そう考えると電話も必要なくなった。

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